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『信長公記』にみる信長像⑤ 安土編

包囲網を破り、武田に勝利したことで、いよいよ天下が近くなって来ました。

本拠地を岐阜から安土に移した信長は政務が中心になっていき、京への往来を頻繁にするようになります。

今回はそんな姿が書かれている巻十〜巻十二の内容になります。

前回はこちら👇


松永久秀謀反

信長に従属する武将に松永久秀という者がいました。

久秀はかつて畿内の中心的人物でしたが、足利義昭を擁して信長が上洛してきた際に降伏し、以降は信長に従っていました。

松永久秀

ただし心底したがっていたわけではなく、久秀は元亀年間に信長を裏切り謀反しています。

しかし信長は元亀争乱を突破し、久秀は降伏。

この時なんと信長は謀反した久秀を赦しています。

信長は、かつて自分に敵対した弟信行に加勢した柴田勝家らも赦したりと、考えられないほど寛大な時があります。

久秀の場合は、畿内の中心的人物であったことから、信長の畿内統治にまだまだ役に立つと思われたのかもしれません。

その久秀がまたも謀反を企てます。

石山本願寺に対峙して築いた天王寺の砦に、城番として松永久秀・息子久通を入れておいたが、八月十七日、松永父子は謀反を企て、砦から退去して、大和の信貴の城に立て籠もった。
信長は「いかなる理由があるのか。思うところを申せば、望みをかなえてやろう」と、松井友閑を通じて尋ねさせたが、松永は逆心を抱いていたから、出頭もしなかった。

『地図と読む 現代語訳 信長公記』p.242

信長はまたも謀反した久秀に対しても、まずは話をきこうとしていますね。

しかし久秀はこれを蹴って敵対の構えを崩しません。

信長は仕方なく久秀討伐の軍勢を差し向けました。

https://www.sengoku-battle-history.net/shigizan-castle/

信長の嫡男信忠を大将とした織田軍は、信貴城を攻略。

松永久秀は自ら天守に火を放ち焼死したと書かれています。

秀吉を叱って褒める

信長に重用された家臣として有名な羽柴秀吉は、この頃には立派な部将になっていました。

羽柴秀吉

北国に勢力を伸ばす織田家は、柴田勝家を大将として出陣し、そこに秀吉も参陣していました。

しかしそこで問題発生。

羽柴秀吉は柴田勝家と意見が合わず、許可も得ずに陣を解いて、引き揚げてしまった。信長は、けしからぬことと激怒した。秀吉は進退に窮した。

同 p.242

信長は家臣に畏敬されていることを考えると、この秀吉の撤退には不思議さを感じます。

信長の命令に反して勝手に行動する家臣など、『信長公記』では秀吉くらいです。

もちろん激怒されたとのことですが、このようなエピソードがあると、逆に信長と秀吉には特別な信頼感があったように思えますね。

そんな秀吉ですが、2ヶ月後には大活躍をします。

十月二十三日、羽柴秀吉は、毛利輝元の勢力下にある播磨へ出陣した。播磨国中を夜を日についで駆け廻り、在地の諸将からことごとく人質を提出させた。
十月二十八日、「播磨方面は十一月十日頃には決着がつくでしょう」と報告したところ、信長から「早々に帰国できるとのこと、あっぱれである」と、ありがたくも朱印状を頂戴した。

同 p.246

日本の旧国名ではわかりにくいと思いますので、当時の国名の日本地図を載せておきます。

https://sengokumap.net/province-map/province-map/

播磨は現在の兵庫県南西部といったところですね。

秀吉は播磨からさらに但馬にも攻め入っており、短期間で成果をあげていきます。

秀吉は(中略)、上月の城を包囲して攻撃した。七日目に、城内の者が城将上月景貞の首を斬って持参し、残る者の命は助けてくれるよう嘆願した。秀吉はただちに、上月城主の首を安土へ送って信長の実検に供し、上月城に立て籠もる残党をことごとく引き出して、播磨と備前・美作両国との国境に磔にしておいた。

同 p.248

助けてくれるように嘆願したにもかかわらず、城兵は磔にて皆殺しになりました。

実はこうしたことは会戦の当初にはよくあることで、残酷さを見せつけることによって相手の戦意をそぐ意図があります。

とにかく秀吉は、但馬・播磨両国の平定に成功したのでした。

十二月十日、信長は三河の吉良で鷹狩りをするため出立した。「近日中に羽柴秀吉が帰陣するだろう。このたび但馬・播磨を平定した褒美として、『乙御前』の釜をやろう」と言って取り出しておき、「帰りしだい、秀吉に渡してやれ」と言い置いた。

同 p.249

「乙御前」の釜とは茶道具のことで、信長は家臣への褒美にしばしばこうした茶器を与えていました。

勝手な撤退を一度は怒ったものの、信長はこの秀吉の活躍には満足だったようですね。

毛利との決戦を望む信長

秀吉が播磨を平定した後、最前線の城である上月城に敵方の毛利軍が攻め寄せ、これを包囲してしまいました。

https://www.sengoku-battle-history.net/kouzuki-castle2/

これに対して秀吉は上月城救援に出陣するも、谷に隔てられて良い策がありません。

信長は「五月一日を期して自ら播磨へ出陣し、われら東国の軍勢と毛利方西国の軍勢で直接切り結び、必ず打ち勝って、東西の境界に決着をつけよう」と言いだした。しかし、佐久間信盛・滝川一益・蜂屋頼隆・明智光秀・丹羽長秀らは、「播磨では峻険を占拠し、谷を隔てて堅固に要害を構え居陣していると聞いております。私ども一同が出陣し、現地の情況を見定めまして御報告いたしますので、御自身での御出馬は思いとどまられた方がよろしいでしょう」と、一同揃って進言した。

同 p.257-258

自らが出陣して一気にかたをつけたい信長に対して、家臣たちが思いとどまらせようとしています。

この進言を聞き入れたのか、信長は家臣たちを先に出陣させ、自分は後から出陣しようとします。

しかしその2日前に豪雨が降り、各地で洪水が起こってしまいました。

このような洪水ではあるけれども、今まで信長が出陣と決めた日限を違えたことはないから、今回も舟に乗ってでも出陣するだろうと考えて、淀・鳥羽・宇治・真木島・山崎の者たちが、数百艘の舟を揃えて五条の油小路まで参上し、櫓櫂を立てて待機した。このことを言上すると、信長はたいへん喜んだ。

同 p.258-259

信長は出陣の日限を違えないと書かれていますね。

家臣もそれをよく承知しているようで、織田軍の統率力の高さが納得できるエピソードです。

ただし今回は、信長は安土の洪水の様子を視察するために帰国し、出陣は取りやめになったようです。

その後、播磨から京都へ戻った秀吉に対して、上月城の救援は捗らず見通しが立たない以上、ひとまず陣を引き払うように命じています。

毛利との決戦にはいたりませんでした。

荒木村重、謀反

荒木村重は、もともとは他家の家臣でしたが、足利義昭が信長に敵対した時に信長の味方になり、摂津の国の支配を任された者でした。

荒木村重

織田方として様々な戦に参陣し、武功を挙げています。

十月二十一日、荒木村重が謀反を企てているとの注進が、方々から届いた。信長はただちには信じがたく、「何の不足があってのことか。言い分があるのなら、申し出るがよい」と、松井友閑・明智光秀・万見重元を派遣して伝えさせた。返事は「野心は少しもございません」とのことだったので、信長は喜び、「母親を人質としてこちらへ預け、差し支えなければ出仕せよ」と伝えた。しかし、実のところ荒木は謀反を企てていたので、出仕しなかった。

同 p.267-268

摂津一国の支配という重用さであったにもかかわらず村重は謀反を起こしたので、信長は驚いた様子です。

信長は「こうなっては仕方がない」と言って、安土城の留守番に織田信孝・稲葉一鉄・不破光治・丸毛長照を置き、十一月三日に出陣、京都二条の新邸に入った。ここでも信長は、明智光秀・羽柴秀吉・松井友閑を派遣して説得させたが、荒木は応じなかった。

同 p.268

以前、松永久秀が謀反した時と似たような感じになっています。

信長はまずは話を聞こうとし、家臣に説得させ、それでも何ともならない場合に討伐の兵を挙げます。

そして謀反した相手には容赦しません。

摂津国内の民は僧俗・男女の別なく撫で斬りにされ、堂塔や仏像が焼き払われたと書かれています。

後に村重は城を脱出して逃れたものの、人質として置かれた妻子や親族は成敗されます。

信長は山崎で情況の報告を受け、かわいそうだとは思ったが、悪人を懲らしめるために伊丹城の人質を成敗するよう、詳細に命令を出した。

同 p.312

その様子は巻十二第24段に長文で書かれており、かなり悲惨な感じです。

自分に刃向かう者がこれ以上出ないように、信長は鬼になったことが『信長公記』からうかがえます。

鷹狩りをする信長

信長は鷹狩りを好むようで、特に安土に移ってからはよく行っているようです。

特に巻十二第1段では、1月から4月の上旬までに7回も鷹狩りについて記載されています。

毎日のように鷹狩りをして、信長も疲れるはずであるが、その気力の強さには皆が感嘆した。

同 p.279

徳川家康が鷹狩りの目的のひとつに体を鍛えることをあげているのは有名ですが、信長もそうだったのかもしれません。

殊に信長は昔から体が強かった様子が伺えますね。

鷹狩りついでにもうひとつ。

四月八日、信長は鷹狩りに出かけ、古池田の東の野原で気散じのひとあばれをやった。お馬廻り衆・お小姓衆には乗馬させ、お弓衆は信長のそばに置いて、乗馬組と徒歩組との二手に分け、乗馬組を徒歩組の中へ駆け込ませた。信長は徒歩組の中にいて、馬を右に左に避けつつ防いだ。しばらく大あばれをして気を晴らし、それからすぐに鷹狩りとなった。

同 p.279

あばれ」というのも気晴らしのひとつだったようですね。

こちらは馴染みがありませんが、結構詳しく内容が書かれていて、徒歩組が乗馬組を躱したり引き廻して遊ぶということでしょう。

安土城天主の様子

五月十一日、吉日につき、信長は安土城の天主閣に移った。

同 p.283

信長は天正四年に安土に移っていますが、天主が完成したのは天正七年。

ちなみに天主(閣)というのは一般的に「城」ときいた時にイメージできる建造物のこと。

http://bungei.or.jp/publics/index/96/

『信長公記』には、この天主の様子が詳細に記載されています。

六階は平面八角形で、四間ある。外の柱は朱塗、内の柱は金色。釈迦十大弟子など、釈尊成道説法の図。縁側には餓鬼ども・鬼どもを、縁側の突き当たりには鯱と飛竜を描かせた。
欄干の擬宝珠には彫刻を施した。
最上階七階は三間四方。座敷の内側はすべて金色、外側もまた金色である。四方の内柱には上り竜・下り竜、天井には天人が舞い降りる図、座敷の内側には三皇・五帝・孔門十哲・商山四皓・竹林の七賢などを描かせた。
軒先には燧金・宝鐸十二箇を吊るした。六十余ある狭間の戸は鉄製で、黒漆を塗った。座敷の内外の柱はすべて漆で布を張り、その上に黒漆を塗った。

同 p.286

このような調子で1階から7階までの様子が書かれていますが、本当に当時としては豪華だったのだなと感じさせるものがあります。

この天主を含め、総じて安土城の特徴は軍事的機能よりも政治的機能を重視したもののようで、中には天皇を迎えるための間が準備されていたとか。

信長は安土城に最高レベルの建造物を築くことによって自らの威信を示し、天下人・織田信長を日本に知らしめる効果を狙ったように感じます。

これも、無駄な戦を避け、諸大名を従わせるための策のひとつだとも言えるでしょう。

今回はここまで、次回は巻十三〜巻十五巻の内容から記事にいたします😊

『信長公記』は巻十五を最終巻としているので、このシリーズは次で最終回となります。

最後に、この頃の信長の勢力図を見てみましょう。

https://sengokumap.net/history/1578/

秀吉や光秀の活躍で西の方に勢力が拡大されてきましたね。

この後さらに勢力を拡大していき、天正十年に織田家は最盛期を迎えることになります。


お読みいただきありがとうございました🌸

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