3分で哲学(近世②) スピノザ
オランダの哲学者スピノザは、デカルトよりも少し後に生まれた人です。
有名な哲学者でありながら大学からの誘いを断って、レンズ磨きをしながら生計を立てつつ執筆を続けていたと言われています。
スピノザに特徴的な思想は汎神論と呼ばれるものです。
これは物体も精神も含めて世界のあらゆるものは神の性質のあらわれであると考える哲学観です。
すべてのものに神が宿っているとする考え方、ちょっと日本人に馴染みがありますよね。
神即自然
デカルトは「われ思う、ゆえにわれあり」によって絶対確実な原理を発見した後、精神と物体はお互いに本質を異にする存在であると考えました。
しかし精神と身体が別々の存在であるなら、歩きたいと思ったときに脚が動くことや、悲しいときに涙が出る理由が説明できなくなってしまいます。
実際にはそんなことはありえませんよね。
精神と物体(身体)はつながっているはずなのです。
とはいえデカルトのこの区別はスピノザにとってももっともに思えました。
そこで精神と物体という異なる存在が干渉し合うのはなぜか、これを説明しようと試みたのです。
この問題を解決するためにスピノザが考えたのが、私たちの精神も身体も自然もすべてひっくるめて神のあらわれであると考えます。
スピノザによるとすべては自然の一部であり、そして自然は神がつくったものではなく、神そのものなのです。
これを神即自然といいます。
このように考えると精神と身体は同じ神の異なるあらわれということになり、人間からみると全然違うものに思えるけれど、大きな視点でみれば両者は同じものということになります。
したがって精神と物体(身体)はつながっているので、嬉しいときに笑顔になることに矛盾は生じません。
心と身体は別というデカルトに対して、スピノザはそれらを1つの神のもとにおさめたのでした。
当然この考えは神を人格的存在と考えるキリスト教と相容れないため、キリスト教からバッシングを受けました。
永遠の相の下
このようにスピノザは人間よりももっと広い視点、神の視点から世界をみることを提唱しました。
これを「永遠の相の下」と述べています。
その結果驚くべきことに、スピノザは人間には自由な意志はないと考えます。
人間は神の一部なので神考えのもとに動いていますが、ふつうそのことに気づいていません。
私たちが何かを意志したり、行動したりすることには何らかの原因があるからであって、この原因は多岐にわたります。
ですがすべての原因を意識するのは人間には不可能です。
すべての原因を知っているのは、人間を超えた存在であり世界のすべてである神だけです。
自分の行動は自分の意志によるのではなく、無数の原因によって必然的に生じた結果にすぎません。
自分の行動が自分の意志によるものと思うことは、石ころが誰かに投げられているのに自力で飛んでいると思い込んでいるようなものだとスピノザは考えます。
それでは人間は因果の必然に拘束された自動機械のような意味しかもたないのでしょうか。
とはいえ私は神あらわれなのですから、私が存在し行動することは神が存在し行動することです。
神が完全な存在者だとすれば無駄なことは何ひとつありませんから、私が存在していることも神の視点からみれば何らかの意味があるでしょう。
なぜ私が存在しそのように行動するのか、神は私に何かしらの役割を与えているはずだとスピノザは考えました。
それを考えることが人の幸せであると、この哲学者は主張するのでした。
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