『信長公記』にみる信長像④ 天正大躍進編
今回は巻七〜巻九の内容になります。
この時期に信長は天下人へ躍進したと言っても過言ではないでしょう。
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天下人になる過程で、信長はどんなことを想い何をしていたのか、さっそく『信長公記』からみていきます😊
一揆勢を殲滅
信長は、元亀年間に反旗を翻した長島の一揆勢に対してこれまで2度の挙兵に及ぶも、征伐までにはいきませんでした。
朝倉・浅井を征伐した今、信長は以前よりも力を入れて長島に出陣します。
織田家の圧倒的な武力の前に一揆勢はどんどん崩され、ついに赦免を願い出ます。
夜中に城を抜け出し逃げたものは男女に関わりなく切り捨てられています。
信長は降伏した相手であっても容赦しません。
降伏し退去することになった一揆勢を射殺する有名な場面です。
まさに殲滅戦ですね。
信長は基本的に一揆を許さず、比叡山焼き打ちの際もそうでしたが、戦う力のない者まで殺します。
少し飛びますが翌年には加賀・越前で発生した一揆に対して出陣。
こちらも織田軍の有力部将を動員して徹底的に殲滅させています。
ものすごい数の殺戮が行われたようです。
ただし例外がありました。
信長は理にかなっていることであれば一揆勢であっても聞き入れることがあるようです。
道理の重視については、平定した越前を柴田勝家に支配を託し、勝家に向けて訓令を発令したときの掟にも見受けられます。
このように自分の指示に理が通っていないことがあれば言ってほしいと、勝家に向かって定めています。
朝廷や将軍と関係をきずき、領国内の民衆の支持を得て、大義名分や理を通すのは信長の基本戦略でした。
その信長が道理を重視するのは当然だったのであり、破天荒なルール無視の傾奇者のイメージとは少し違うと思います。
ちなみにこの訓令には面白い記述が続きます。
フロイスの『日本史』には、信長は家臣に畏敬の念をもたれていた旨が書かれていますが、信長は自分をこのように崇敬させることによって、諸国だけではなく、織田家中の統率をはかっていたように思われます。
長篠の戦い
包囲網を突破した信長にとって未だ最大の敵となっていたのは、武田氏でした。
武田信玄亡き後、跡を継いだ勝頼は、信長の同盟相手である徳川家康の三河に向けて出陣します。
徳川方の城、長篠城が包囲され落城も近いということで、信長は家康の援軍に駆けつけます。
武田の兵数は一万五千ほどであり、それに対して兵数で勝る信長は相手から少数に見えるように兵を配置しました。
信長には、勝頼を油断させ、撤退させずに決戦にもちこむ意図がありました。
策はあたり、勝頼は織田・徳川の陣から約2.2kmほどに陣取ります。
この長篠城救援部隊は夜のうちに行動を開始し、翌日の朝、長篠城を包囲する武田勢を追い払うことに成功します。
これをもって長篠の戦いの火蓋が切られました。
長篠城救援策によって武田軍は前後から挟まれる形になり、勝頼は決戦を迫られました。
決戦にあたり織田・徳川連合軍は、足軽を前に出して挑発しては引く戦法をとっています。
単に突撃してくる騎馬隊を鉄砲で迎え撃ったのではなく、足軽を前に出して引き寄せから一斉に撃ったのがわかります。
このようにして連合軍は鉄砲隊を入れ替わり立ち替わらせて戦い、しだいに兵力が少なくなってきた武田軍はとうとう敗走をはじめます。
一万五千の兵数のうち一万人を討ち取ったということで、織田・徳川連合軍の大勝利で終わりました。
長篠の戦いは、信長の策と戦法が功を奏して宿敵武田に大打撃を与えた戦になりました。
この勝利によって東の脅威が去ったことを確認した信長は、居城を岐阜から安土へ移し、そこに有名な安土城を築くのです。
総じて信長を天下人へ躍進させた重要な戦であったと言えるでしょう。
『信長公記』の語りにはその大勝利の晴れ晴れした様子が現れています。
それにしても、信長は野戦が強いです。
これまで見たきたものの中では、稲生、桶狭間、姉川、そして長篠の戦いですが、そのどれにも勝利しています。
ちなみに、信長は攻城戦はしますが籠城戦を経験したことは一度もありません。
基本的に信長は攻めの姿勢であると言っても良いと思います。
優しい信長
信長は京都への上り下りの道中に、身体に障害がある乞食を見つけます。
町の者にその乞食のことを尋ねると、「昔この者の先祖が常盤御前(源義経の母)を殺した報いで、子孫は代々身体に障害をもって生まれ乞食になる」ということでした。
哀れに思った信長は、上洛する際にこの者を思い出し、自ら木綿二十反を用意します。
町の人々を呼び出した信長は、この木綿をその人たちに預けます。
この行為には、乞食はいうまでもなく町中の人やお供の者たちも、上下みな涙を流したと書かれています。
信長には社会的に弱い立場にある人を慈しむ心があったようですね。
天王寺の戦い
信長に敵対する勢力として厄介なのは、大阪を本拠地とする石山本願寺です。
織田軍は石山の南に天王寺砦を築き、本願寺攻めの拠点としていましたが、これが大阪方に包囲されてしまいます。
その時信長は京都にいましたが、戦況を聞くと即刻動きます。
動くと決めたらすぐ動く、信長のやり方が出ましたね。
ただし毎度お馴染みですが軍勢がなかなか集まりません。
天王寺に籠っている武将の中には、明智光秀がいました。
光秀はこの頃にはもう織田家中で指折りの将だったと言って良いでしょう。
信長は光秀やそのほかの将を救うために、5倍の兵力の敵に攻撃を開始します。
なんと信長自らが足軽に混じって駆け廻り指揮をとっていたようです。
素早い出陣や兵力劣勢もあって、桶狭間の戦いが思い起こされる場面ですね。
もしかすると信長は、このように戦況的に味方が不利な時には、素早い動き・一点集中攻撃・自ら指揮の3点を念頭に入れていたのかもしれません。
足に鉄砲の玉が当たって負傷していますが、大将である信長がこのようにして動いているわけですから、織田軍の士気は高かったことでしょう。
この攻撃がうまくいって、天王寺砦に入ることに成功します。
天王寺砦に入った信長は、籠城はせず、反撃にでます。
天王寺砦の中にどの程度の兵が残っていたのかはわかりませんが、駆けつけた織田軍は三千ばかりだったはずです。
それが反撃に出て敵を二千七百余り討ち取るというのはすごい戦果ですね。
ちなみに木戸口とは城門の入口のことで、包囲されていた織田軍は一転して大阪方の兵を敵城まで追い詰めたということが書かれています。
基本的に屈強な織田兵に加え、信長本人が一緒に戦っているのですから、この凄まじさも何か説明がつきそうな感じがします。
それにしても、信長が来るだけでこれだけ戦況が変わってしまうのはやはり驚異的だと思います。
今回はここまでにいたします。
最後に、この頃の信長の勢力図を見てみましょう。
武田氏の領土はまだまだ広いですが、長篠の戦いで大打撃を受けてからは勢いがなくなっていきます。
ちなみにこの時期以降、信長自身が直接戦闘することはあまりなくなり、天下人として政務を行う様子が多くなってきます。
次回からは、また違った角度から信長の様子が見られると思います😊
お読みいただきありがとうございました🌸
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