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ハイデガー『存在と時間』で知っておくべきポイント

私は大学院で哲学を専攻しており、ドイツの哲学者ハイデガーのものを研究しています。

哲学専攻者は必ず知っているハイデガーですが、『存在と時間』というタイトルも聞いたことがある方は多いのではないでしょうか。

noteでもたくさんの方がこの哲学書について投稿されていますよね。

一般的にハイデガーの主著と呼ばれるこれは、哲学史に大きな影響を与えた書物として重要度も高いものですが、同時に難解とされています。

けれども、ポイントさえ抑えて読み進めていけばそこまで混乱することはないように思います。

今回はそんな『存在と時間』で知っておくべきポイントを3点、私なりにごく簡単にまとめてみます。


①『存在と時間』の目的は何か

ハイデガーがこの書物を執筆した目的が何かを知っておくことは、全体を読み通す上でとても大切です。

ハイデガーの問いは一貫して「存在とは何か」です。

ここで「存在」と言われているのは、「あるものをそのようにあらしめている出来事」という理解で良いと思います。

例えばこのコーヒーカップ。

私は「コーヒーカップが机の上にある」と言うことができます。

このとき、このコーヒーカップの存在は以下のように捉えることができます。

・私が陶芸体験で作ったもの
・記事を書きながらコーヒーを飲むための容器
・机の上に置かれているもの

このカップは明らかに何の脈絡もなしに今この机の上に置かれているのではありません。

このカップが今ここにあるのは、かつて私が自分オリジナルのカップを欲したためであり、コーヒーを飲みながら記事を書いたら心地よさそうだと期待したからであり、そして私が椅子に座って記事を書くためにカップは机の上に置かれたからです。

換言すれば、このコーヒーカップの存在は私の世界と密接に関わることによって生起してくるようなものだということです。

これを突き詰めてみると、そもそも私がコーヒーを飲むことができるのは、私の世界にコーヒーという飲み物が存在している場合であり、コーヒーという飲み物が出現した歴史、豆を供給する人や土地や植物、太陽。。。という具合にほとんど無限にその背景を考えることができるかもしれません。

ハイデガーはこうした物事の連関を世界を呼びます。

したがって、実はこの世界こそがあるものをそのものとして成立させている存在の出来事を構成していることになります。

このように、ハイデガーが考える存在とはあるものがそのものである出来事を指していますが、それは世界によって形作られるようなものなのです。

ただし世界についても、それは出来事としての存在によって成立している事象であるため、存在の生起とともに世界も成立する、つまり世界は存在の働きのひとつの結果だと考えることもできるでしょう。

ところで当然、コーヒーカップを使う私の世界は、そのような文化のない人たちの世界とは異なりますし、そもそも動物や虫の世界とは全く異なるはずです。

それらは各々に固有な世界として成立しているが故に、私の存在とコーヒーカップの存在、猫の存在、鳥の存在はそれぞれ全く異なっていますが、しかし「存在」ということでは共通のものをもっています。

このように様々な世界を成立させ、あるものにその存在を与えているのが存在の出来事なのであり、ハイデガーが『存在と時間』で問題にしているのは、こうした固有の世界を成立させる存在そのものとは何か、彼の言い方に従うなら「存在一般の意味は何か」ということになります。

簡単に言えば、ハイデガーは様々に生起する存在の出来事がどのように起こるのかを、個別的にではなく一般的に問いかけているということです。

『存在と時間』は、こうした視点に立脚して書かれたものなのです。


②「現存在」とは何か

『存在と時間』だけではなく、後期のハイデガーにいたるまで常に重要なワードとして使用されるのが「現存在」です。

現存在のドイツ語はDaseinですが、これはda(そこ)+sein(存在する)という成り立ちで、「そこに存在する」というニュアンスが名詞化したものになります。

『存在と時間』では人間のことを表す言葉なので、現存在=人間という理解で大丈夫ですが、ここでdaには世界の意味が込められています。

先ほど説明したように、世界には存在の生起とともに開かれてくるという性格がありました。

daがこうした世界を示すとき、Daseinとは「世界に存在する者」、もっと言えば「存在の生起に立ち会う者」という意味をもってきます。

ハイデガーが現存在というときには、この「存在の生起に立ち会う者」という意味を念頭に入れ、そのうえで、それが人間のことであるというのが大切です。

人間が「存在の生起に立ち会う者」と言われる意味は、全ての存在するもののうちで人間だけが「存在」ということを問題にすることができるからです。

例えば猫は存在を問題にするでしょうか。

ハイデガー的にはNOです。

猫はもちろん固有の世界をもっていますが、その世界そのものを問題にしたりはしません。

むしろエサや昼寝、繁殖など、自分の世界のうちで享受できるものを求め、それを獲得することに生を費やしています。

これに対して人間は、猫と同様に食や恋人などを求めることもできますが、そのような物事が生じてくる自分の世界自体を問題にすることもでき、それを解明しようとしたり、あるいは変革しようとさえします。

猫は世界に対して閉ざされて存在しているのであり、人間は世界に対して開かれて存在している、と考えられています。

したがって、世界のうちで生じるものだけを問題にする猫には存在を問題にすることはできず、存在を問題にできるのは世界そのものを問題にできる人間だけなのです。

人間に固有なこうした営みの最たるものが哲学であり、ここにハイデガーが存在論こそが哲学であると考える理由があります。

ところで、『存在と時間』の目的は「存在一般の意味は何か」でした。

このような問いに答えるにあたって、そもそもこうした問いを問うことができる唯一の者である現存在についてまずは考察することが手がかりになるとハイデガーは考えました。

それが『存在と時間』の刊行部分である「現存在分析」ということになります。


③世界内存在

ハイデガーは人間を現存在と呼ぶと言いましたが、「世界内存在」は人間を示すもうひとつの重要な概念です。

これは現存在の構造を意味する概念であり、人間がどのような存在の仕方をしているのかを表しています。

ドイツ語ではIn-der-Welt-sein(世界の内に存在する者)で、意味の上ではDasein(世界に存在する者)と変わりません。

現存在をより詳しく解析したものが世界内存在であるとみて大丈夫です。

世界内存在は『存在と時間』の大半を占めて語られるものであるため膨大な内容を持ちますが、ここではその中でも重要な「内存在」の契機について説明いたします。

ハイデガーは、世界内存在としての人間には「気分」「理解」「語り」という3つの契機があると言います。

「気分」は比較的ふつうの意味と同じで、その時々に感情としてどう感じるかのことです。

ハイデガー的に重要なのは、それが人間にとって襲ってくるものであるという性格をもつことであり、自分がどのような状態にあるのかを正直に知らせてくるものという働きをすることです。

例えば、ウキウキな気分は私にとって何か良いことがあったということを示しますし、怒りの感情は私にとって何か喜ばしくないことが生じたことを示します。

こうした感情は、人間がなろうとしてそのような気分になれるようなものではなく、明るい暗い関係なく自然な反応として人間に襲来するものです。

逆に言えばそれは頭で計算するようなものではないので、人間にとっては自分や周りの物事を知るためのセンサーのような役割を担っているのです。

「理解」は可能性に関わります。

例えば、「私はコーヒーカップを理解している」と言うとき、私はコーヒーカップの扱い方を知っているということを明言しています。

扱い方を知っているということは、コーヒーカップがどのように使用されるべきものなのかを了解しているということであり、これを言い換えると、コーヒーカップの可能性を理解しているということになります。

コーヒーカップはコーヒーを飲むための容器として想定されたものなので、コーヒーをその中に入れて飲むという可能性を私は知っています。

また本を読んでいる時にはページがめくれないようにするために、重しとして本の上に置くという使い方もできるでしょう。

またある時には、絵画の被写体として利用することも考えられます。

このようにあるものを理解している、ということはそのものの可能性を理解しているということを指しているのであり、これが理解という契機がもつ意味です。

「語り」は人間が出会う物事が言葉という形で表現されることを意味します。

ある気分になっていることを他者に伝えるだけではなく自分自身で知るためにも、言葉は必要不可欠ですし、ある可能性を理解する場合も言葉として表現することができます。

これは実際に発語されるかには関わりません。

頭の中でも私たちは言葉を使って物事を整理するからです。

そして語りの本質は、それが人間が自分で勝手に作り出したものではなく、人間がその内に存在している世界が言葉として人間に向かってくるということです。

例えば、コーヒーカップという言葉は人間が全く恣意的に作り出したものではなく、それはコーヒーを飲むための容器という意味で世界が人間に与えたものが音として結晶したものです。

猫についても、世界が人間に猫という動物を出会わせ、それを人間に示すということがあって初めて猫という言葉が誕生します。

有名な話に、日本語では姉や妹というふたつの言葉があるのに、英語ではどちらもsisterでまとめられるというのがありますよね。

これは日本人に固有の世界とアメリカ人に固有の世界が異なることから、結果として世界からそこに住む人間に対して与えられる言葉に違いが出ることを示すひとつの例です。

また外国人の世界を知るためには、その人の言葉を習得しなければならないというのは、その人に固有の世界が言語としてその世界自身を語っているというこうした現象の理解に基づいているのでしょう。

このように人間が言葉を語るのではなく、あくまでも世界が人間に言葉を介して語りかけているというのが、ハイデガーの言葉についての基本的なスタンスです。

現存在は世界から与えられる言葉を語ることで、世界の内に存在する者として生きているのです。

「気分」「理解」「語り」はこのようにして、相互に関連しあって世界内存在を構成しています。

自分が世界の内にあってどのような状態なのかを気分が明らかにし、世界の内の物事にどのように関わるかを理解しながら、語りによって自らの世界を知っていきます。

世界内存在としての私が戸棚からコーヒーカップを手に取るとき、私はコーヒーを飲むことでリフレッシュしたいという気分で、カップの容器としての可能性を理解しつつ、「コーヒーカップ」という言葉を通して自分がどのような世界に存在しているのかを知っているのです。


以上、『存在と時間』を読む上で欠かすことのできない3つのポイントについて簡単に説明しました。

これら3つのポイントは私的には重要度MAXなところだと思いますので、これから読んでみる方、もしくは読んだけどよくわからなかった方の参考になれば嬉しいです。

「わかりにくい」or「違うだろ」などありましたら、お気軽にコメントしていただければと思います。

ところで『存在と時間』には、「死への先駆」や「本来性」「頽落」「良心」「時間性」などなど、他にもたくさんの重要点があります。

もしニーズがあれば、これらについても記事にしようかなと思っています。


お読みいただきありがとうございました🌸


10/2 追記

いつもスキありがとうございます💖

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