#44 多様性ってなんだろう?

21歳まで、不寛容な人間だった。
中学は理不尽なルールの多かったソフトテニス部に、高校・大学はスポ魂色の強い体育会の剣道部に属していた。レギュラーに選ばれるためには強くなければいけないし、強くないとチームで勝てない。強くなるためには練習に行かなければならないし、練習に来ない人間は、やらない理由を見つけるのが得意なズルい人間だ。とか、割と本気で思っていた時期があった。

大学3年生のとき、留学に行くまでの半年間だけ女子主将を任された。今からここに記すことは、人生で最も傷ついた瞬間のひとつで、思い出そうとするだけで涙がでそうになるのだけれど、ちょっと頑張って書いてみる。

心の優しい、同期の女の子がいた。大学で剣道をはじめた初心者だったが、女子の人数が少ない私の大学は、初心者でも、試合に出られるまでの技量がなくても、人数合わせのため問答無用で試合に出ねばならなかった。
その女の子は、一年生のころは順調に練習に来ていたけれど、二年生になり、大学のゼミが忙しくなったことや、家が遠いこともあって、練習にだんだん来なくなっていった。主将だった私は、他校との試合が組まれるたびに誰を試合に出すか考えて監督に相談する役割を担っていて、その子のことでいつも頭を悩ませていた。練習に来ていないから、当たり前のようにレギュラーから外すのか?少ない人数なのにわざわざレギュラーから外すなんて、仲間外れのように思われないか?でも、練習に来なくても試合に出れてしまうと、他に頻繁に練習に来ているメンバーから反感を買わないか?結局何が正しいのか分からないまま、試合に出てもらうことも、出てもらわないこともあった。

とある練習試合の前日、私はいつものように、どの順番で選手を出すかウンウン考え込んでいた。すると、その女の子から
「明日は土曜日だけど授業があるので、練習試合に行けません」
とLINEで連絡があった。

え?なんでそんなに急に言うの?明日、試合に出てもらうつもりだったんだよ。そう連絡したよね?もっと責任感のある行動してよ。

私はこんな反応を返してしまった。冷静だったかと問われれば、NOだ。

彼女は、
「ごめん。本当は授業じゃないけど、いまは部活に行けそうにないんだ。」

そう言って、彼女はその日剣道部の全体LINEから退会した。練習にも来なくなった。

分かりやすいワルモノは私になった。
「お前があんな強く言うからあいつは辞めたんだ」
当時信頼していた別の同期からそう言われたとき、いっそ私も辞めてしまいたいと本気で思った。悔しくて、分からなくて、申し訳なくて、辛くて、毎晩泣いていた。

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今日、職場の尊敬してやまない大変聡明な先輩に、このエピソードと、私の中でずっと答えの出ていないモヤモヤを話した。

「この経験をして以来、組織の中では"多様性"が大切だって言われると、ちょっとだけ頭をかしげてしまう時があるんです。試合に勝つことが目的の剣道部で、練習に来ず、部の勝利に貢献する頻度の少ない人がいるときは、”多様性”が大切だからって、行動の変容を求めるのはおかしいのでしょうか?」

すると、賢者のような先輩はこう答えた。

「"多様性"っていうのは組織の目的によって再定義される言葉なんじゃないかな。試合に勝つことが目的の組織における"多様性"は自ずと定義されるもので、練習に来て試合に勝つことにさえ貢献すれば、その人がバイトをしてようがしてまいが、GPAが1.0だろうが4.0だろうが、関係のないこと。
けれども、目的が一つしか存在しない組織はこの世にほぼ存在しないと言っても良くて、剣道部の中に『試合には出れなくても運動ができればいいや』って思う個人、またはグループがいたとして、その人たちにとっての"多様性"には練習に行く・行かないの選択肢が存在する。異なる目的を持った個人の集まりの中で、合意を形成していくのは大変に難しいことで、その難しさゆえに『リーダーシップ』とか『組織論』が存在するんだよ。

分かりやすい"会社"や"部活"といった組織だけの話じゃなくて、友人や家族といったミクロな関係性から、膨大な個の集合体である社会といったマクロな関係性にも及ぶような話なんじゃないかな。」

ズガーーーーーンと雷を打たれたような気持ちになった。そうか、"多様性"は、ただただ多様であることを認めればOK、他人との間に生じる違いには無関心でいれば良いという話ではなくて、ある目的を持った集団の中で範囲を決めて再定義されるものだから、違和感があってもおかしくないのか。そうか。
優れた合意形成能力を持つ人間は、自分の中の"多様性"の定義が深大で、最大益を目指した目的を達成するための手段や考え方を持ち、合意のための対話を嫌がられないような人のことを指すんじゃないか。

なんだか人生の大発見をしてしまった感覚である。

あのとき、違う目的をもった同期との接し方として、自分の考えを押し付けることしか出来なかった私は、リーダーシップにももちろん欠けていたし、相手の事情を全く熟慮できていなかった。それどころか、一時は「何で私がワルモノにされなあかんねん」と深く傷ついていたくらい、精神的にも未熟だった。
タイムマシンに乗って「こう言ったほうがエエで」と言いたい気分だけど、そんなことはできないので、とにかく前を向いて進みたい。
他人と自分の"多様性"は違って当たり前。なぜなら目的が人それぞれ違うから。けれど、同じ方向を向いて進む必要があるなら、合意形成のための努力を惜しまない(押し付けるのではなく、合意に向けた最適解を探す)。なんだか壮大な話になってしまったけれど、しかも文脈がユラユラ揺れて読みにくいと感じた方もいるかもしれないけれど、そこはご愛嬌で許してほしい。

明日は七夕!

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