セレッソと私の物語①〈2002〜2005:出会い〉
皆さんには、応援しているスポーツチームがありますか?
私は、生まれ育った大阪にある「セレッソ大阪」というサッカーチームを応援しています。
2002年、7歳の頃にセレッソの試合を初めて観戦し、そこからセレッソ一筋…というと嘘になるのですが、少し離れた時期がありながらも20年が経ち、人生の3分の2弱はセレッソを応援していることになります。
このNoteでは20年間を何回かに分けて、セレッソ大阪と私のストーリーを綴っていこうと思います。
インターネットという公共空間で自分語りのようなことをするのは恥ずかしい限りなのですが、それでも自分の人生についてストーリー立てて書きたいと思ったのにはいくつか理由があります。
それをここで書くと前置きがとても長くなるので、このストーリーが現在まで到達した後にまとめとして書こうと思います。何週間後になるやらわかりませんが…
サッカーとの出会い
1995年に大阪府南部の街で生まれた私は、幼い頃からボールに親しみながら育ってきました。
私の家では、ボールといえば野球かサッカー。ある日は庭でプラスチックのバットをブンブン振り回し、またある日は自分の顔よりデカいサッカーボールを蹴って遊んでいたのが懐かしいです。
そんな球技大好き少年が小学校に入学した2002年、世間は日韓ワールドカップに熱狂していました。W杯の試合自体を見た記憶はあまりありませんが、あの「フィーバー」と言える雰囲気は幼いながらも鮮明に覚えています。
W杯が終わっても、世間のサッカー熱は冷める気配がありません。父親が兄と私を初めてサッカー観戦に連れて行ってくれたのは、そんな夏のある日でした…。
一番近くにあったJクラブ
人生で初めて生で観たサッカーの試合は、長居スタジアムでのセレッソ大阪vs大宮アルディージャでした。
長居は家から一番近いスタジアムでした。多分それが理由で連れて行ってもらったんだと思います。
ただスタジアムの名前は初耳でしたし、セレッソの選手で知っていたのはW杯に出場した森島寛晃選手に西澤明訓選手、そしてその年大ブレイクを果たした期待の若手・大久保嘉人選手ぐらいのものでした。
試合については、スコア(1対1の引き分け)以外全く覚えていません。
ただ、この試合が自分の人生においてとても重要なポイントだったことは確かです。
初めて試合を見たチーム、そして一番近くにあるというただそれだけの理由で、この日から私はセレッソ大阪を応援するようになりました。
(なので、仮に私が北摂の生まれだったとしたら今頃ガンバを応援していると思います。そう考えると、生まれ育った場所が人生にもたらす影響というのは計り知れないほど大きいものですね)
長居の思い出
それから年に何度か、父親と兄と一緒にセレッソの試合を観に長居に通うようになりました。
初めての勝利はホーム・横浜FC戦。現社長の森島寛晃選手が決勝点を決めたのですが、私はその瞬間をスタンドではなくトイレで迎えたという非常に悲しい出来事がありました。多分お腹痛かったのかなぁ…
当時の私はサッカーを観るのは好きでしたが、内向的な性格のためかスタジアムで大声ではしゃぐのは好きではありませんでした。
今でも覚えているのですが、現地観戦の時にセレッソの選手がゴールを決め、当然周りは大盛り上がりなのですが、私はというと「うるさいから嫌!」とか何とか駄々をこねていました。じゃあスタジアム行くなよ…
この話に関してはただのガキですが、基本的には大人になっても観戦スタイルは変わっていないようで、コロナ前から(一部例外的な試合を除いて)メインorバックスタンド上段で静かに座って観戦するのが私のお決まりパターンです。
本筋に戻って、2003年にJ1に昇格すると勝てない試合もそれなりに多くなりました。
この頃には少しずつ、負けて悔しいという思いが芽生えてきたように記憶しています。
とは言っても今ほどのものではなく、勝てば嬉しい・負けたらちょっと悔しいという感じでゆる〜く応援していました。
そんな子供が本当の「悔しさ」を知るには、10歳になった年の冬まで待たねばなりません。
長居の悲劇
私が10歳になったのは2005年です。
その年の冬に何があったか…昔からのサポーターの方にとっては、決して忘れられない出来事ではないでしょうか。
あの日は12月3日。私は父と兄と一緒に長居スタジアムにいました。
覚えているのは、スタジアムが満員だったこと。先制点、そして勝ち越し点で「いける!」と思ったこと。相手の同点ゴールの瞬間に悲鳴が上がり、一拍置いてスタジアムが静まり返ったこと。
最後の笛が鳴り、手の中から優勝が滑り落ちたこと。その現実をしばらく受け止められなかったこと。帰りの長居駅のホームがとても寒かったこと。家に帰ってスポーツニュースを見て、ガンバ大阪に優勝を攫われたと知ったこと。そこでやっと「悔しい」という気持ちが湧き起こってきたこと。
あまりにも残酷な1日でした。
しかしこの悔しさを糧に、セレッソへの愛情はより一層深まっていきました。
…とはならなかったのが、子供心の難しいところです。
②に続く
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?