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セレッソと私の物語②〈2006〜2011:一度離れ、そしてくっつき〉

前回は7歳でセレッソと出会ってから、10歳の冬に「長居の悲劇」を目撃するまでを綴りました。

この悔しい出来事をきっかけに、さらにセレッソへの愛情が深まり今に至る…
となったわけではありませんでした。

一度セレッソから離れ、そして再びくっつきという紆余曲折の日々が今回のテーマになります。

その目は海外へ

翌2006年、セレッソは序盤から成績が振るわず小林伸二監督の解任に至ります。
スペインから大久保嘉人選手の復帰、また磐田から名波浩選手の獲得などがあり後半は少し持ち直しましたが、最終的にはまさかのJ2降格という結果に終わりました。

降格によってファンが離れるというのはよくあることです。
ただ、自分がセレッソから離れてしまったきっかけとしては、それよりもドイツW杯の方が大きかったです。

ドイツW杯では日本代表はグループリーグ敗退に終わりました。
しかし、11歳の自分の目にはそれよりもイタリア、フランス、ドイツ、ポルトガルといった欧州の強豪国とその選手たちがとても輝いて見えました。

日本のサッカーなんて面白くない。
海外のサッカーをもっと観たい!

4年前自分をセレッソに近づけてくれたW杯が、今度は自分をセレッソから、そしてJリーグから遠ざけることになりました。

サッカー部での日々

海外サッカーに対する熱と共に、プレーする競技としてのサッカーに対する熱も高まっていきます。
とはいえ、当時スクール等に通っていたわけではなく、学校から帰るとひたすら家の庭でボールを触っていました。

自分の憧れは、当時20歳そこそこにして世界的スターの地位にのし上がろうとしていたクリスティアーノ・ロナウド。
今でこそ点取り屋のCFですが、当時はトリッキーな足技を次々と繰り出し相手を翻弄するウインガーでした。
あんなドリブラーになりたい!と、彼のフェイントの映像を何度も何度も見返し、庭でずっと練習していたものです。

2008年に中学に入学し、迷わず選んだのはもちろんサッカー部。
自慢のドリブルを武器にここで活躍してやる!と思っていました。

しかし、よくよく考えると自分は庭でボール遊びをしていただけの未経験者で、当然周りに比べると技術も経験も劣ります。
それでも部活に入りたての頃はドリブルで仕掛けまくってたまに相手を抜けたのですが、そこから力を伸ばすことができず、気がつけば全く相手を抜けなくなり、仕掛けることが怖いとさえ思うようになりました。

今思うと、練習に対する真摯さが絶対的に足りていませんでした。
「自分はこういう選手になりたくて、そのためにはこのような課題がある。なので練習メニューで
はこのようなことを意識して取り組む」
といったことは全く考えず、ただ与えられた練習メニューをこなすことしか知りませんでした。
当時の自分には「考えて練習しろ」と言ってやりたいですし、今それを知っている自分ならばもっとあの時の練習を楽しめたんじゃないかな…とも思います。

すっかり自信を失った当時の自分は、間違いなくサッカーを嫌いになっていました。
こうなると、セレッソにも目が向くはずがありません。
気がつくと森島選手が引退していました。
香川選手・乾選手のコンビが当時のJ2を席巻していたことも全く知りませんでした。
3年間のJ2生活の末J1昇格を果たしたのも、当時は風の噂で聞いた程度です。

再びスタジアムへ

2010年、セレッソがJ1に昇格しました。

香川真司選手が開幕からゴールを量産し、ドルトムントへ移籍し、しかし南アフリカW杯の出場メンバーには残念ながら選ばれず…
J1に上がったということもあり、セレッソに対して特に強い関心を持っていなくてもこういったニュースが流れてきます。
それに対して少しは心が動いていたあたり、試合を観なくなっても心の奥底にはセレサポ成分が残っていたのかもしれません。

そんな夏のある日、父親に長居スタジアムに誘われました。
特に用事はないし行ってみるか…ということで、父親についていくことにしました。
サッカー観戦は、あの2005年12月3日以来です。

観に行ったのは、2010年7月24日のモンテディオ山形戦。
5年近くスタジアムから遠ざかっていたということで、セレッソの選手の情報は殆どアップデートされていません。

「GKはキム・ジンヒョンか…誰やろ?」
「茂庭、播戸…代表で見たことあるけど、今セレッソやとは知らんかった」
「乾と家長、めちゃくちゃ上手いから名前は知ってたけどセレッソにおったんや…」
「山口蛍か。最近はこういう名前の選手もおるんやなぁ」

スタジアムでこんな感じのことを考えていたのをよく覚えています。

むしろ、対戦相手の山形の方が馴染み深いメンバーでした。
なんせ監督は小林伸二さん、スタメンで前田和哉選手、ベンチには古橋達弥選手に下村東美選手と、自分が小さい頃長居でよく見ていたメンバーが揃っていたのですから。

試合は3-0でセレッソの勝利。
乾選手の(意外にも)J1初ゴール、エースだったアドリアーノ選手の先制点&退場、そして当時期待の若手的ポジションだった現キャプテン・清武選手の加入後初ゴールと、今思えば非常に貴重なシーンを沢山見ることができました。

試合結果。この次の試合から、セレッソはキンチョウスタジアムに段階的移転を始めました。

ただ、その誰よりも自分の印象に残ったのは家長昭博選手でした。
姿勢の良いドリブルで相手の守備陣を切り裂き、強烈なシュートにラストパスにと「天才」の異名が相応しい大活躍。
サッカーを観る立場としても、そして実際にプレーした立場としても、彼のプレーは間違いなく人生最大の衝撃でした。

(ちなみに、この衝撃が塗り替えられたのが10年後の2020年でした。奇しくも?その年山形からセレッソに来た坂元達裕選手が、私に人生2度目の、そして最大の衝撃を与えてくれることになります)

試合が終わって帰路につく頃には、自分の中にセレッソを好きだと思う気持ちが少し、しかし確実に再生していました。  

ゆるく応援

この時期から私は再びセレッソサポーターになりました。

私が通っていた学校では土曜日も授業があり、更に部活もやっているとJリーグの試合を見る機会はなかなかありません。

それでも、初のACL出場決定、そのACLでの大阪ダービー勝利、そして前半0-3から大逆転で勝利した広島戦などはよく覚えていますし、そこで喜んだ自分がいたのも確かです。

また、人生で初めて自分でチケットを取ってセレッソの試合を見に行く予定も立てていました。
(その前日に東日本大震災が発生し、結局試合は延期になってしまいましたが)

少しずつ、しかし着実にセレッソにハマっていった自分にとってのターニングポイントは、翌2012年となります。

③に続く


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