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「寂しさ悲しさをごまかさない」自分の依存心と向き合う②

前回の続きです。


前回の記事を書いた日の夕方、久しぶりに母に腹を立てる事案がありました。母とは距離が近いとしんどくなってしまうので、ほどよい心理的距離を置いていて、頻繁に連絡したり会ったりはしていません。なので、母に腹を立てるのは考えてみたら10年ぶりくらいかもしれません。

その時に浮かんだのは「この人はいつも私以外の誰かを優先する」「この人はやっぱり私の気持ちをわかろうとしてくれない」という考えと、そして諦め。「寂しい」「悲しい」そういう気持ちは浮かんできませんでした。腹を立てたけど、それを母に伝えた後は、すぐに慣れ親しんだ「諦め」に置き変わった感じでした。

いつものこと、よくあること、ずっとこうだったこと。そうして忘れてしまうようなことだと思っていました。


だけど、そこから数日、ことあるごとに、たびたび、「寂しい」「悲しい」という気持ちを感じます。寂しさ悲しさを感じるネットニュースばかり目に入ってくるし、誰かのふとした発言になぜか寂しくなったり、もうだいぶ手放したはずの好きだった人のことを急にたくさん考えて悲しくなったり、空も星も冬の木々もイルミネーションもすべてが寂しくてもの悲しい。一人の時に涙がぼろぼろ出てきて、何だか元気が出ない。


きっと、今までもこういうことはあったと思うけれど、お酒飲んだり、好きな人のことを考えたり、痛み止めのような他の刺激で紛らわせてきたと思います。

でも今、人生に痛み止めをあんまり用意していない私は、ダイレクトに寂しさ悲しさに襲われている。なんでこんなに落ち込んでいるんだろう??と自分に問いかけて、そこでやっと、「あー、これは投影か。私の中の寂しさ悲しさが世界に投影されまくっている」と思い至りました。その原因を考えてみれば、やっぱり母との一件だろうなぁと思ったわけです。


ずっと抱えていた「母は妹のほうがかわいいんだ」という気持ちも、自分が母になり「下の子のほうが手がかかるからそうなってしまったんだ」と母の状況を理解しました。何かにつけ否定されたりバカにされたりしたことも「そういう子育ての時代だった」「母もそうやって育てられた」「母の人生はストレスが多くて大変だった」と母がそうなってしまった背景を理解しました。そうして、今、母には感謝しているし、恨んだり憎んだりという気持ちはありません。

さらに、子供時代の苦しい思いがあったからこそ、心理学に出会って今がある。もちろん私自身の気に入っているところで、母に似ているところもたくさんある。母の子に生まれた恩恵もちゃんと受け取れています。


だけどやっぱり、一番大切な「感情の解放」をやってなかったな。寂しさ、悲しさと向き合う、受け入れる、きちんと感じる、をしていない。今回みたいに「いつものこと」って諦めてみたり、「お母さんも大変だった」って頭で理解してみたり、大人の思考で寂しさ悲しさにフタをしているだけだった。

でも、私の「誰か私を一番に愛してよー!」「さみしいよー!」「かなしいよー!」という子供の感情が癒されてない。だから私の人生では、「どうせ私は一番に愛されない」「寂しい」「悲しい」を感じるような出来事が何度も起きる。そうして、その感情を味わおう、ちゃんと解放しよう、とするんですね。


この母との一件が「自分の依存と向き合おう」と決意した日の夕方に起こったと考えると、やっぱり世界の創造主は私で、世界の全ては私の自作自演なんだなと思ってしまいます。(注:私は危ない人ではありません。心理学ではこういう考え方をします笑)

この子供の時から感じていた「寂しい」「悲しい」を、共感と受容を持ってきちんと感じること。私の中にいる、大きな依存心を持ったままの子供と真剣に向き合って、受け入れること。「自分の依存と向き合う」の最初の一歩はこれです、と書こうと思っていたら、その大切さを強烈に実感するできごとが起きました。

だからやっぱり、「私は世界の創造神なり」と思ったのでした笑。

(続く)
(次こそは向き合う方法やー!)









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