続荒川洋治『真珠』に挑戦するの記

かなり以前、何かの雑誌で作曲家久石譲氏が養老孟司氏との対談で興味深いことをおっしゃっていた。心に残ったので要点をノートに書き写していたのを思い出した。現代音楽の傾向について、不協和音の音楽が今や大半で、現代音楽家は感覚より意識で作曲していると。自分のために作っていて自分だけで完結しているから、聴衆は離れていくということだった。これは全く現代詩に通じると思ってメモしていたのだろう。感覚より、意識、それはおそらく世界的傾向で、その意味で言えば現代音楽も現代詩も世界に伍していっているということなのでしょう。もはや世界の現実はロマン派などではいられないのですから。荒川氏の仕事は、一般読書子に受け入れられることは期待もせず、もっぱら現代詩の世界のトップランナーたちに向けての言葉の新しい挑戦なのだろうと思う。現代音楽は聴くと不安とか恐怖とかネガティブな感情しかわかないので聴かず、久石譲氏の作品は大好きな私に、荒川洋治氏の詩語が分からないのは当然。この詩集が何を企図し何を成し遂げたのか、私には掴まえがたいことを佐々木氏や藤原氏はじめ現代詩手帖に書くような人々には通じている、から批評ができるのだ。同時に彼らだけで、自己完結しているのだとも思う。一般読書子だけでなく私のような従来の抒情詩が好きで,そらんじることができ、歌える詩が書きたい古いタイプの詩人もおいてけぼりである。意味は問うな、その、分からなさこそが詩なのだ、と言っているかのよう。社会的コミュニケーションの道具である言葉を、そのコミュニケーションの要素をぶった切ってしまう。え?と思い次の行に目を凝らす、読者の想像力を刺激しそして連れていかれる物語の世界。確かに興味深い。巻尾に置かれたのは 氏の故郷福井を描いた 「工場の白い山」という哀切な作品だ。この作品は私にもその詩情が伝わった。最後の行、「工場は消え/白い山だ」は所を変えれば日本の地方すべてに共通することだ。消えたのは地方の工場で、若い女性達は都市型の洗濯物を取り入れるようになり、誰も彼もここにはいない。。。白い山だけがあり続ける。これが現実の、ただいま現在の日本の姿だ。
荒川洋治の言葉はいわばスイーパーなのだろう。球筋を読めれば恐らく打ち返すことができるでしょうに、そうなるには訓練が必要なんだと思う。