難解詩に挑む

現代詩は読まれない。難解だからだ。現代人には気晴らしは多くあり、なんでもタイパで、映画さえ早送りで見る時代に、苦労して訳の分からないものを読む人は詩人以外ではよほど酔狂な人だけだろう。私は難解詩には反対、というより書けないのですが、難しいことを易しく書くためには、難解詩を攻略する必要があると思う。分からないから排斥するのでなく分かったうえで敬遠したい、というので、一例を岡井隆著『岡井隆の忘れ物』の引用で検証してみる。この著者の教室に参加していたので人物像を知っているし多くの著書も読み、人格以外文学者としては信用しているものです。

家族                   吉岡実

ぼくは生まれる
ところをえらばずに火事の家で
やがて水平になってゆく
坂の下の聖なる母
ぼくと同時に生まれたのはなに?
くらげ・貝・それともソーセージ
ぼくの観念がかわる
死が円みを意味するとしたら
二つにわれた冬瓜をかかえ
聖なる父が家を出るのを見て笑う


吉岡実はシュールリアリズムの詩人で、有名な「静物」という詩も私には難解ではあったが、イメージはつかめる気がしたものだった。が、この作品は知らなかったしイメージもつかめない。ただ、一読して感じたのは、人は自分の生まれる家も場所も選べない、この詩の主体の ぼく は火宅に生まれたんだなあ、そして相当変わった父母、きょうだいがあって、苦労したんだなあ、というところまでだった。そこからだれも自分の生まれる場所も時代も家族も選べないし、自分では自分を選べない…・という方へ思考が飛んで行ってしまった。
もしかしたらそれも一つの読みかもしれないが、下記、岡井氏はこのように書く。

エンプソンは詩とはあいまいさだと言い、意外性と理解しがたさだと言った人もいる。論理的な理解から離れるために、ここで聖なる母という不可解で愉快なノイズが必要不可欠ともいえる。僕たちは家族の中に生まれる。しかし家族とは誰なのか知らないまま育つ。やがてそれが分かってくる頃聖なる存在だった母についても父についても、ぼくの観念が変わっていく。死が円みを意味するとは父の死を予感しているのかもしれない。聖なる父は死んで家を出たのであり、その死は円みを帯びていた、だから二つに割れた冬瓜というオブジェを抱えて出て行くのだ。

火宅は焼けて水平になり、そこで育つうちに奇妙なきょうだいに囲まれていることに気づき、父も母も聖なる存在ではなくなり家族観も変わっていく。わずか10行の詩で吉岡実の家族観の変化が語られているというのが要旨である。よくあることだと思うが、冬瓜や列挙した脈絡のない名詞のイメージが吉岡実らしいところだと思う。この詩がいい詩かどうか私には判定できないが、なんとか読めたように思う。