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愛しき やわやわのうどん

糖質を控えるようにしてから、うどんをとんと食べなくなった。

うどんに限らず、そうめんやラーメンなども滅多に食べなくなったが、
うどんという存在自体は今も大好きだ。
もちろん、そうめんやラーメンその他の食べ物たちも
みんな大好きなままだ。あまり食べないだけで。


食べて「おいしい」の好きと、ただ存在が好きというのはだいぶ違う。
存在が好きというのは、見た目だったり名前の響きだったり、それにまつわるイメージだったり、
何て言うか、キャラクター的に存在感を持っていると思うのだ。

うどんのキャラクターは、
やっぱり素朴でどっしりと柔らかみのある田舎っぽい雰囲気。
洗練されたうどんもあるのだろうけど、
私の中の原点みたいなうどんは、小学校のバザーのうどん。


やわやわのゆでめん、
コシとか歯ごたえとかいう概念を必要としない
噛まずに飲み込めるようなものに、

あっさりだしのつゆ、

そして口に含むとじゅわっと甘辛い汁がしみ出すお揚げ、

ちょっと乾きかけた紙みたいなきざみねぎ、

カスカスの口当たりの割りばし、

外のベンチかガタガタのパイプ椅子で、
大して「おいしい!」とも思わずに食べるもの。

そう、かつてのうどんは大して美味くなかったのだ(私調べ)。

なので、店で何か食べるとなっても、あえてうどんを選ぶというようなことはほとんどなかった。
何か妥協する必要があるときの、「うどんでええか」。


だから、大人になってだいぶ経ってから、“本場の手打ちうどん“みたいなのを食べたときは衝撃だった。
うどん、こんなにうまかったんか…!

それからは、あえてうどんをチョイスしたりしていた。

そして今、またあまりうどんを食べなくなり、うどんのことを思うとき
私の中に思い出される「うどん」とは、
やっぱりあの、バザーのうどんなのだ。


たまにあのうどんが食べたくなる。
食べたらきっと大してうまくなく、「やっぱり」と思うんだろうけど
それも込みで懐かしい。


そう、懐かしいから好きなだけなのだ。
でもみんな、懐かしいものは自分のアイデンティティーを作ったひとつの欠片として、心のどこかで愛しているものだ。これは仕方ない。


懐かしい記憶は、もう手が届かないから想い焦がれるもの。
強引にたぐりよせ、下手にさわると、思い出がねじ曲がってしまう。

だからそっとしておこう。
やわやわのうどんは食べない方がいい。

そうして、昔をなつかしみながら、
私はうどんを絵に描いた。



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