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宇沢弘文さんのファンになった!

「日本の教育を考える」 宇沢弘文 岩波新書
 
この本を読むと「社会的共通資本」という耳慣れない言葉と何度も出会う。
 
社会的共通資本のことを、
「一つの国ないし、特的の地域がゆるやかな経済生活を営み、優れた文化を展開し、人間的に魅力ある社会を、持続的・安定的に推進することを可能にするような社会的装置」と宇沢さんは定義している。
 
例えば、水俣の海は漁民たちにとって優れた自然の恵みであり、そこに集落があって、集落の文化があったけれど、経済的利益を優先する一企業の出す排水によって失われてしまった例を出しながら、そうした資源は、誰かが独占するためではなく、人類はもちろん、生き物としいけるものの共通の財産、社会的資源であることを訴えている。


 
社会的共通資本は、自然だけではなく、教育、医療、農業、公園など、多岐にわたる。
政治や経済からの独立して、真理を追求する姿勢が教育の命であることを何度も説いている。
学びに評価することはあっても、順位をつけることを厳しく批判する姿勢は、本当にその通りだと私も思う。
学校という場が、子どもの優越感や劣等感を生み出すとしたら、それは成績表ではないだろうか?学びとは、できないことをできるようにして、人間の持つ可能性を伸ばしていくことだとしたら、本来は楽しくて生き生きとした場になるのではないか?
効率優先で、みんなに同じ教育を押し付けるスタイルに警鐘を鳴らしている。
 
学校は本来は、学問追求の場であるのだ。それは別の言葉で言うと「真理追求」の場であるのだ。言いたいことを言えずに、黙って先生の言うことを聞くのが大事なのではなく、おかしいと思うことをおかしいと言い出せる「健全な批判精神」を育てることが教育の一つの目的ではないだろうか?
 
複線型の戦前の教育制度の良さや、大学の自治が官僚制度に飲み込まれていく戦後の教育制度の歴史などが、一流の経済学者の視点で描かれている。
この本を読むと、横路にそれていく。例えばゲーテの公園制度だったり、ベトナム戦争の時のアメリカの大学の様子、マッカーシーによるレッドバージ、自分のよく知らなかったことに光が当てられるのだ。
 
古代ギリシアの時代から続くアカデミアとしての「学問」を心から愛していて、それが官僚的に管理されることを忌み嫌うのである。なぜならば、真の自由な学問追求は管理されるものではなく、共に考え合うことで自分たちで収めていくものだからだ。
 
宇沢さんの何度も例を変えて「社会的共通資本」を繰り返されるうちに、「社会的共通資本」という考え方が、生き方の核ととして胸に刻まれていく。
この本は(この本にか限らないが)、知識として読むのにも一級であるだけではなく、魂を養うために読む本である。
 
宇沢さんの名著「自動車の社会的費用」以前読んだ時には、読みけれなかったが、もう一度チャレンジしてみようと思う。
宇沢弘文氏、この一冊を読んで、私は彼の大ファンになった。

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