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男女は同じか違うかの思想的立場と認識

 世の中はジェンダー平等思想が優勢である(私個人もジェンダー平等主義者である)ので、それだけが妥当な正義の思想と勘違いする人も多い。しかし別にそうと確定している訳ではない。すなわち、現段階において「男女は同じなのだ」という思想と「男女は別なのだ」という思想のどちらか一方のみだけが確定的に正しくあるわけではないのだ。

 ただし、「男女は同じなのだ」という思想と「男女は別なのだ」という思想は、両立できない。このことは留保条件つきの「男女は原則的に同じだが、例外的に違う部分もある」「男女は原則的に違うが、例外的に同じ部分もある」という形に変えても同様である。

 現代社会における常識的見解のジェンダー論の範囲のトピックで、「男女が同じである事態」と「男女が異なる事態」とを挙げて、それぞれの事態に対する両思想の有り様の違いを具体的に考察してみよう。

 例えば、基本的な法的権利、財産権や参政権などの扱いは現代社会において男女同じである。特別な事情でもない限り男女別に分かれて商品を購入することはなく、男女で分かれて投票することもない。一方、スポーツや排泄行為において男女は分かれて活動ないしは行動する。これらの事柄に対して、男女が同じであること、あるいは男女が異なることに関して、「同じであること・異なること」に異議を唱える人間は、現代に生きる健全な常識の持ち主では居ないだろう。

 例示した事態が社会において成立しているとき、「男女は同じなのだ」という思想による事態の説明と「男女は別なのだ」という思想による事態の説明は異なる。

 では、なぜ両者の思想の説明が異なるのかと言えば、正義の概念からそうなるのだ。すなわち、正義論における「等しいとき等しく扱われ、異なるとき異なって扱われることが正義である」とする正義概念、あるいは法学における以下の相対的平等の概念が前提になっているからである。

相対的平等:等しい者は等しく扱う(異なる者は異なる扱いをする)

 この相対的平等概念は、アリストテレスが『ニコマコス倫理学』のなかで説明した配分的正義の概念を源流とし、ローマ法で現実的に確立した正義の概念から来ている。このことは『ローマ法大全』において「正義は、各人に彼自身の正当な取り分を配分する、恒常的で永続的な意思である」と正義が説明されていることから理解できる。ただし、「彼自身の正当な取り分」は権能あるいは権利を指すとの解釈は後世の解釈である。しかし、このローマ法における正義の考え方が正義論の「等しいとき等しく扱われ、異なるとき異なって扱われることが正義である」とする正義概念の淵源となり、法学の相対的平等の概念に繋がっていることが分かるだろう。

 「等しいとき等しく扱われ、異なるとき異なって扱われることが正義である」とする正義概念あるいは相対的平等の概念から、「男女は同じなのだ」という思想による例示した事態の説明と「男女は別なのだ」という思想による例示した事態の説明が異ならねばならないことは明らかだと思われる。

 なぜなら、それぞれが依拠する二つの思想について、以下の真逆の疑問が出てくるため、それぞれの思想的立場で説明する内的必要性があるためである。

  • 「男女は同じなのになぜその事態に関しては男女が違うのか」という疑問

  • 「男女は別なのになぜその事態に関しては男女は等しいのか」という疑問

 各々その違いを見てみよう。

 「男女は同じなのだ」という思想に依拠するならば、財産権や参政権などの扱いが男女同じである事態はその思想に反する事態ではないために、その事態と思想の整合性を説明する内的必要性は無い一方で、スポーツや排泄行為において男女は分かれて活動ないしは行動する事態は「男女は同じなのだ」との思想に反する事態であるために、その事態と思想の整合性を説明する内的必要性がある。

 同様に、「男女は別なのだ」との思想に依拠すれば、スポーツや排泄行為において男女は分かれて活動ないしは行動する事態はその思想に反する事態ではないために、その事態と思想の整合性を説明する内的必要性は無い一方で、財産権や参政権などの扱いが男女同じである事態は「男女は別なのだ」との思想に反する事態であるために、その事態と思想の整合性を説明する内的必要性がある。

 要するに、それぞれの思想的立場から例外となる事態について、なぜその事態が例外扱いとなるかの説明が必要なのである。つまり、それぞれの思想は全く逆の説明「同じであるにもかからわず、なぜ違う扱いが正当であるのか」・「別であるにもかからわず、なぜ同じ扱いが正当であるのか」についての説明が内的に必要なのである。

 ここで、内的必要性とはなにか解説しておこう。

 ある思想体系なり理論体系を前提に考えたとき、それらの体系から単純に考えたならば整合的ではなくなる事実があったとしよう。そのとき、「事実と矛盾する体系は正しくないのではないか?」と体系の妥当性に対する疑義が生じる。もちろん、思想体系や理論体系の強度と観察された事実の強度には差がある。例えば、現代の物理学のような強固な体系を持ったものならば、理論体系を疑うよりも観察の不備を疑うことになる。しかし、観察される事実の方が強固で思想体系・理論体系の方が強度が低いとき、思想体系・理論体系の方こそ修正が図られる。もしもその修正が図られないとき、その思想体系や理論体系は破棄されるべきものとなる。

 したがって、思想体系・理論体系から単純に考えたならば整合的ではなくなる、強い強度を持った観察された事実があるとき、その思想体系や理論体系を破棄することなく維持しようと考えるならば、その事実を体系内で説明するなり、その事実を体系で説明する対象から除外できる理屈を示す必要がある。このような必要性を「内的必要性」という。

 余談であるが、内的必要性があるなら外的必要性もあることが窺えるだろう。この外的必要性とは思想体系なり理論体系なりが、なぜ必要であるかを考えるときの必要性である。つまり「なぜそれを考えるの?」「なぜ、そんな風に考えないといけないの?」といった体系そのものの存在意義を外部から問われたときに示す必要性である。外的必要性の典型は「なせ数学を勉強しなければいけないの?」という質問に対して「受験に必要だからだよ」と答えるときの必要性がそれである。

 話を元に戻そう。

 「男女は同じなのだ」という思想と「男女は別なのだ」という思想のどちらが妥当なのかはまだ確定していない。また、それぞれの論者がどちらの思想的立場を取ろうが、それ自体はなんの問題も無い。それぞれが妥当だと考える限りにおいて、それぞれの思想を主張すればよい。

 しかし、原則として「男女は同じなのだ」という思想に依拠して男女平等を主張していたならば、それと同時に「男は○○で、女は△△なのだ」といった類の主張をすることは、原則である「男女は同じなのだ」という思想とどのような整合性を持っているのかをキチンと示すことなしに主張することはダブルスタンダードに他ならない。同様に、「男女は別なのだ」という思想に依拠して男女の差異を許容していたならば、「男女は別なのだ」という思想とどのような整合性を持っているのかをキチンと示すことなしに「男女は同じでなければならない」といった類の主張をすることもまたダブルスタンダードに他ならない。

 このことに関して、もう少し詳細に考察しよう。

 ただの結果として現れる男女比で性差別を主張するフェミニストが居たとしよう。このフェミニストが「男女は原則的には差異がない」という思想的立場に立ち、その思想的立場から「同等の人間なのに結果が異なるのは差別に起因している」と認識することは、その思想的立場から整合的である。

 例えば、「(結果平等の視点である)ジェンダーギャップ指数でみると日本はまだまだジェンダー不平等であり、女性に対して不当な社会だ」と主張するフェミニストは、現実世界で結果として現れた男女の差異——ジェンダーギャップ指数の構成項目の差異——の原因を、男女は本質的には同じ存在であるとの前提ゆえに「男性と女性の本質の違い」にあるとは考えないのである。

 その一方で、同じフェミニストが詳細かつ厳密に論証することなく「男の政治家は戦争を志向し、女の政治家は平和を志向する」といった類の主張をすることは、ダブルスタンダードに他ならない。現実世界の結果として男女の差異、すなわち男女比だけで差別云々を主張する、ジェンダーギャップ指数の思考様式——男女は本質として差異がない――と同じ思考様式をとるのであれば、政治家の戦争志向やら平和志向の決定要因を性別に求めるのは整合性に欠ける。大した根拠がないのであれば、「たとえ政治の決断において戦争が志向されることがあったとしても、決断に関する傾向で、男性と女性との間に差異はない」と考えるべきだ。そう考えないのであれば、その思想には整合性がない。

 逆に「男性の生来的な戦争志向ゆえに戦争が頻発する結果が生じる」と認識するのであれば、「女性の生来的なリーダー忌避志向により、女性政治家が少ない結果が生じる」と考えるべきである。男女の解剖学的差異が直接的に関係しないと考えられる政治の分野で、現実世界に表れた結果を「男性や女性の本質」に還元して認識するのであれば、女性にとって好都合な認識になろうが、不都合な認識になろうが、等しく「男女の本質」に還元すべきである。

 更に言えば、「女には政はできん!」との言説がジェンダーバイアスに塗れたセクシストの言説であると考えるのであれば、「男の政治家は戦争を志向し、女の政治家は平和を志向する」との主張もまた、ジェンダーバイアスに塗れたセクシストの主張に他ならない。

 前者に関して「お前たちはセクシストだ!」とフェミニストが糾弾するのであれば、フェミニスト自身が後者を主張するとき、自分達もまたセクシストに他ならないと自己批判すべきである。


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