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ジェンダー論におけるダブルスタンダード

 私がフォローしている、私と少し立ち位置が違うジェンダー論関連の意見を持つ方が以下のnote記事を書いた。

 note記事の表題にある「ダブルスタンダード」に関して、私がよく槍玉に挙げるテーマであるので、今回のnote記事は少し前に世間を賑わした都立高校の入試と東京大学および東京工業大学の入試の話を具体例として、このダブルスタンダードの問題を考察していきたい。


■北田氏が疑問視する「ダブルスタンダードへの非難」について

 北田氏は以下の箇所で「ダブルスタンダードへの非難」に対する異議を出している。

 ジェンダー関連の論争では、何かを判断するにあたって男女で異なる基準を適用するような発言をすると、すかさず「ダブルスタンダードだ!」「性差別だ!」と批判されるのが常である。しかし、私はそうした二重基準的な態度が常に全面的に間違っているとは思わない(間違っている場合も少なくないとは思うが)。

 男女が様々な面で性質の異なる集団である以上、時と場合次第で異なる基準が適用されるのはむしろ正当なことではなかろうか。
 「ある場面では男性に有利な基準が採用され、また別の場面では女性に有利な基準が採用される、しかし世の中全体で見ればどちらかの性が一方的に得をしているわけでも損をしているわけでもない」、そうした社会でありさえすれば良いのではないかと思うのだ。

【第35回】ジェンダー平等、もう一つの道(1) ダブルスタンダードでいい
北田 ゆいと〈2〉 2023/8/6 note記事

 ダブルスタンダードを常々批判している私からすると、北田氏の上記の異議はちょっと的外れな異議であるように思われる。それというのも、ジェンダー論関連で問題になるダブルスタンダードはもっとメタレベルのダブルスタンダードであることが多いからだ。

 典型的には、都立高校の入試と東大入試に関するジェンダー問題で騒がれた問題である。

 フェミニスト達は都立高校の入試に関して男女別定員による合格ラインの差異を女性差別として騒ぎ立てた。一方で、合格ラインが同一の東大入試において、合格者の男女比で女性が劣勢であることを女性差別と非難する。

 この様子がニュースでどのように取り上げられたか見てみよう。

3月、学習塾が主催する来年度の高校入試説明会が都内で開かれていました。
生徒や保護者への説明に、気になる言葉が出てきました。
「都立高校は男子と女子で合格基準が違うことは注意してほしい。女子のほうが頑張って成績を上げないと同じ学校に入れない」
九州出身の私たちには驚きの一言。聞けば都立高校の普通科は男子と女子の定員を別に設けているのです。全国でもこんなことは東京以外にありません。今、LGBTQの生徒たちへの対応も求められる中で、一体どういうことなのでしょうか。
(首都圏局/都庁担当記者 野中夕加・ディレクター 村山世奈)

都立高校入試の“男女別定員制” 同じ点数なのに女子だけ不合格?
NHK首都圏ナビWEBリポート 2021/3/25

 さて、現時点では合格ラインに関して男子の方が低いため、またぞろ俗流フェミニストが「日本社会は男尊女卑だから、男が有利にするために制度をそんな風に作ったんだ」という下らない男性悪玉論に基づく陰謀論を出してきかねないので、予防線としてこの制度の経緯が書かれた上のNHK首都圏ナビWEBリポートの該当箇所を引用しておく。

共学化とともに始まった男女別定員制
 そもそも都立高校の男女別定員制はいつから始まったのか。
戦後、男女共学制を導入するにあたって、昭和25年度(1950年度)から男女別の定員が設けられました。
 それまでは旧制中学校や旧制高等女学校など、男女は別々の学校で異なる教育を受けていました。
 女子が通っていた旧制高等女学校では、理数科目の授業時間が少なく、外国語も必修ではなかったため、当時は男女間に大きな学力差がありました。そのため、男子が通っていた旧制中学校を共学化しても、女子の学力の水準では入学することが難しかったのです。そうした中、教育庁から、共学制を実現するために、男女で別の枠を設けて募集するよう指示が出されます。(『東京都教育史稿(戦後学校教育編)』より)
 男女別定員制は、もともと女子の教育を保障するために生まれた仕組みだったのです。
 しかし、男女が幼い頃から同じ教育を受けることが当たり前になった現在、都道府県全体で公立高校の男女別定員制を残しているのは東京都だけです。どうしてなのでしょうか?

都立高校入試の“男女別定員制” 同じ点数なのに女子だけ不合格?
NHK首都圏ナビWEBリポート 2021/3/25

 以上の引用箇所から分かるように、もともとは女性保護のための制度であった。それが現在では男性保護の制度に転化してしまっている。このことから、事態は変化したということは間違いない。

 だが、そのことが直ちに不正義を意味するのかといえば、そうはならない。なぜなら、都立高校の入試はクォータ原理に基づく入試といえるからだ。そう、フェミニストが散々いろいろな分野で導入を主張するクォータ原理である。

 入試に限定してもクォータ原理に基づく入試が不正義であって合格基準に男女差を設けない成績原理のみを正義とするならば、はじめに触れたように現在は成績原理で合格判定を出している東京大学の入学試験においてクォータ原理に基づく入試を主張するフェミニストは道理に合わない。実際に、東大に関してフェミニストは以下のように「日本の男女人口比は半々なのに、学生の男女比が半々でないのはオカシイ」として、入試をクリアした学生の学力水準ではなく入試をクリアした学生の男女比を問題にする。

 19.7%。2021年、東京大の学部生に占める女子学生の割合だ。教員に占める女性教員比率(*)は18.5%。とくに学部女子学生の割合は、この10年ほどで18%台から19%台に微増しているものの20%に達したことはなく、「2割の壁」と呼ばれている。
 そんな状況を変えるべく、21年4月、総長の代替わりに併せ執行部を刷新。8人の理事のうち過半数の5人を女性として再スタートした。「ダイバーシティ(多様性)&インクルージョン(包摂)」を基本理念の一つに掲げ、女性、性的マイノリティー、障がい者、外国人といった多様な人々が居心地よく過ごせるキャンパスづくりをめざす。
 ダイバーシティ、国際担当の理事・副学長に就任した林香里教授は、学内の女性比率について危機感を募らせる。
日本の男女人口比は半々なのに、東京大の中は社会と全く違う男女比になっています。これは非常におかしなことで、変わらなければならないと強く感じています。めざす女性学生比率はまずは3割、最終的には5割です

東大は「女子2割」の壁をなぜ超えられない?「男性中心の東大」が生む社会の偏り
林菜穂子 2022/05/06 AERA dot. (強調引用者)

 東大の一般入試自体に関しては、まだクォータ原理に基づく入試制度ではない。しかし、推薦入試に関してみるとかなり疑義が生じる。以下の記事で東大名誉教授の上野千鶴子氏の説明を見よう(ちなみに、この引用の直前に都立高校の入試に触れられているのには笑ってしまう。なんとまぁ、ご都合主義なダブルスタンダード!)。

 「現時点で、東大のAO入試(学校推薦型選抜)における女子比率は非常に高い。つまり、推薦枠を拡大すれば、結果的に女子学生比率は高まります。“推薦で入ると、一般入試で正面突破しなかった負い目を卒業まで感じ続ける”という人もいますが、大事なのは、どんな制度で入ったかではなく、その後の伸びしろがどれだけあるか。推薦入学で入った学生ほど入学後の伸びが大きく、周囲にも好影響があるというデータもあります」

上野千鶴子氏が警鐘を鳴らす「東大の女子学生が少ない」という大問題
2021/06/24 女性セブン2021年7月1・8日号 (強調引用者)

 この推薦入学に関してなのだが、東大の学生が発行している東大新聞のやや古い記事に以下のようなものがある。

 東京大学新聞社は新入生全員を対象に3月29、30日に受験・大学生活・進路・社会問題に関するアンケートを実施し、新入生3146人の95%に当たる2995人(推薦入試合格者77人中66人を含む)から回答を得た。アンケートは、毎年入学諸手続き時に行っている、東大生を対象にした唯一の全数調査。今年の新入生にはどのような傾向があるのか、分析した。
               (中略)
●センター試験平均点
 自己採点の結果では、推薦入試合格者のセンター試験平均点は788点(66人回答)。前期試験合格者の平均点は816点(2849人回答)で、30点近く前期試験合格者を下回った

東大の一般入試合格者、半数が推薦に反対
2016/4/21  東大新聞オンライン (強調引用者)

 つまり、直近の2つの記事を総合すれば「女子学生が増えるなら、その入り口のハードルが低くてもいいじゃない」と東京大学の名誉教授の上野千鶴子氏は考えているということだ。上野氏の主張は、男性比率の高い一般入試の蛇口を絞って女性比率の高い推薦入試の蛇口を開けましょうということなので、厳密にはクォータ原理に基づく入試という訳ではないが、女性を増やすという意図をもって推薦入試枠を増やすというならばそこには隠れたクォータ原理が潜んでいる。

 また、東大が行っている以下の女性優遇制度もそうである。これらもクォータ原理と「現時点では女性が少ない」という事実とによってのみ、ジェンダー論の視点からは正当化できない。つまり、教育においてクォータ原理を否定するならば、これらの取り組みも否定されるべきである。

「男性優位の大学」から脱却し、女性比率を向上させるため、東京大ではさまざまな施策が行われている。「女子高校生のための東京大学説明会」は06年から毎年開かれ、20年からはオンラインで開催。17年からは遠方から通学する女子学生に対して月3万円の家賃を補助。東京大学男女共同参画室が公式で発行する女子中高生向けのパンフレット『Perspectives』は女子学生の学生生活やキャリアについて取り上げる。

東大は「女子2割」の壁をなぜ超えられない?「男性中心の東大」が生む社会の偏り林菜穂子 2022/05/06 AERA dot.

 このことは東大に限った話ではない。実際に入試において女性枠を設けた東京工業大学についてもそうだ。

 東工大は成績原理から一部クォータ原理へとスタンダードの転換を行った大学である。当然ながら、女性は一般枠と女性枠の二つの枠で受験できる御蔭(=合格点が低い方の枠で受験すればよいため)で東工大に入り易くなる。この東工大の取り組みに称賛の声を挙げるフェミニストが殆どだ。疑義が提出されても「たとえ男子学生と同じ学力があって合格しても『(お情けの)女子枠だから合格できたんでしょ』というスティグマが生じる」といった類の功利的な疑義であって、「成績原理からクォータ原理に変えるのはオカシイ」というスタンダード自体に対する疑義ではない。

 さて、このとき「お前ら、なにをご都合主義のダブルスタンダードをカマしているのだ!」とフェミニストに対して怒りの声を挙げたくなるのは、なにも「男女で差がある合格基準」自体ではないのだ。

 フェミニストは「世の中には男性特権がある。男性は下駄を履いていて実力以上の扱いを受けている」と男性を糾弾する。大学や高校の入試に限らず世の中において、男女共通の評価基準ではなく男性を優遇した評価基準があるのだとして、フェミニストは男性を散々に責めてきた。つまり「性別で異なる評価基準を設けることをフェミニストは否定し糾弾してきた」のである。それにもかかわらず「性別で異なる評価基準を設けることをフェミニストが要求してきた」からダブルスタンダードと非難するのだ。

 このフェミニストの卑劣さが理解できるだろうか。

 フェミニストがクォータ原理を主張するならば、それならそれでいい。だが、当然ながらクォータ原理は「男女比が50:50ならば公平」と見做す原理だ。したがって、クオータ原理では、実績や能力に関する評価基準が男女で同一でなくとも直ちに不公平ではないのだ。

 更に言えば、クォータ原理を採用している前提を置くならば、男女比が50:50でないことを是正するためのアファーマティブ・アクションに関して、女性へのアファーマティブ・アクションと同様に、男性へのアファーマティブ・アクションもまた認めるべきなのだ。このとき、男性へのアファーマティブ・アクションについて男性特権やら男性が履いている下駄やらと非難すべきではない。つまり、クォータ原理に基づくならば、男女比が50:50ではなく一方の性別側が優勢であるときに、その優勢さを齎しているモノだけに限定して特権やらゲタと非難すべきなのだ。

 入試におけるクォータ原理に基づくアファーマティブ・アクションに関して、今回取り上げた都立高校の入試の問題で考えるならば、「男女で同一の合格基準であったならば男性劣位になるために設けられたアファーマティブ・アクション」と見做すべきものであって、男性特権であるやら、男性の履いている下駄やら、都立高校の入試における女性差別であるやらと見做すべき話ではない。

 また逆に、フェミニストが成績(あるいは実績や能力)原理を主張するならば、それならそれでいい。だが、当然ながら成績原理は「成績が同一ならば公平」と見做す原理だ。したがって、成績原理では、結果としての男女比が50:50でなくとも直ちに不公平ではないのだ。

 更に言えば、成績原理を採用している前提を置くならば、男女比が50:50でないことを是正するためのアファーマティブ・アクションに関して、それが女性へのアファーマティブ・アクションであろうが何だろうが、そんなものはアンフェアな制度なのだ。優遇されているのが男性であるのか女性であるのかを問わず、どんなものであっても優遇は不公正な特権や下駄として非難すべきものなのだ。

 入試におけるアファーマティブ・アクションに関して、今回取り上げた東工大の入試の問題(入試以外では東大の様々な女子学生優遇制度)で考えるならば、「それらは不当な女性特権や女性へのゲタ」と見做すべきものである。

 また、東大や東工大の学生の男女比に関して男性比率が高かろうと、成績原理で適切に入試が行われているのであれば、それは男性特権やら男性のゲタやらの話ではなく、また女性差別でもないのだ。

 以上の事から分かるように、フェミニストのダブルスタンダードが非難される場合というのは、「ある基準に関して自分達が得するときには適用するが自分達が損するときにはそれとは別の基準を持ち出してくる」という場合がそれである。今回の例で言えば、入試において、成績原理を持ち出した方が女性有利に働くとき成績原理を持ち出すが一転不利になれば成績原理を引っ込め、クォータ原理を持ち出した方が女性有利に働くときクォータ原理を持ち出すが一転不利になればクォータ原理を引っ込めるという、議論している領域が同じであるにも関わらず、ポジショントークで原理=スタンダードの使い分けを行う態度が、ダブルスタンダードとして非難されるのである。



■補論:ダブルスタンダードと相対的平等

 ダブルスタンダードに関して、「男女で適用される基準が異なる」というものもダブルスタンダード(=二重基準)にはなる。つまり、「バレーボールのネットの高さは男子2.43m女性2.24mと異なる」「女性には生理休暇があるが男性にはない」といったような基準の違いがダブルスタンダードと呼ばれることもある。

 しかし、そのような意味合いでのダブルスタンダードに関しては、余程の偏屈な人間でない限り、不当であるとも感じない。また「異なるものに異なる対応をとること」というのは別段正義に反することではない。

 詳細については別の機会に論じようと思うが、法学において「個人間で差異のある取り扱いを認めない」というのは絶対的平等と呼ばれる概念である。そして、この絶対的平等というのは非常に抽象的な「すべての人は人として扱われる」といった形での、具体的権利を指し示すわけではない、ある種の前提に関して当てはまる概念である。つまり、なにか実際の具体的な物事に関して「事情や特性や能力の如何を問わず、個人間でのいかなる差別的取り扱いを許さない」という立場は、むしろ特殊な人間の思想的立場である。

 さらに、具体的に「私には○○という権利がある!」と主張するときには相対的平等と呼ばれる概念が適用されることが一般的である。相対的平等とは「等しきものは等しく扱う」という平等として定義されているが、逆にいえば「等しくないもの=異なるもの」は等しく扱わなくともよいとされている平等概念である。つまり、「異なるものに異なる扱いをすること」は別に相対的平等の概念には反しない。

 したがって、「その分野に関して男女が異なるために、適用される基準が男女で違う」という意味合いでのダブルスタンダード(=二つの基準)と、フェミニストがよくやらかす正義(あるいは平等)概念に反するダブルスタンダードとは、全くの別物であるのだ。







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