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変わっている人のことをまちがいさがしのまちがいだなんて言わないでほしい。

 本日職場を早退しました。最近心身ともに不調。
今回は自分のいままでの人生や発達で仕事を追われた先輩に対して思うことをまとめました。

若干前回の記事の続き。

・家庭環境
・経済状況・格差
・発達障害(または脳の障害による類似症状)
・平均的じゃない人を疎外することについての違和感

…などがキーワードかもしれない。

なんだかんだ「普通の生活」をしてきたはずだけど…

 社会人になって3年を過ぎました。大学以降徐々に体調を崩しがちになり、今日は早退してしまった。もともと中学まで皆勤賞くらいの出席率だったのに…そうなってしまった理由とか、考えをまとめてみようと思う。

 私は昔から出席率は良かったんですよね。でも学校だとかイベントごとだとか、集団行動を強要される場面がものすごく苦手でした。
いじめにはあったこともあったけど、それは高校以降の話だし、それ以前はなんか「学校よりも家で好きなことしたいなー」「友達といるのもいいけど、学校で会うんだしそれ以上は関わらなくても良いなー放課後は家で好きなことしたいなー」と考える根っからの内向・引きこもりな人格でした。

 人に対して苦手意識やネガティブな感情を持つようなことは、高校に入ってはじめてのいじめ経験まではなく、誰とでも緊張せずにある程度ははせる(話すことがあれば)といった感じ。体育は得意じゃないけど、勉強は苦手じゃない。活発でも問題児でも特にない。そんな子どもだった。

 高校で初めていじめに遭い(入学初日でターゲットにされるという…おそらく誰でも良いからいじめたい人だった)、私は何も考えずに楽な近場の高校に入ったことをすごく後悔した。

 もちろん今では勉強がすべてではないし、むしろ人間的な能力の方が大事だとわかっているのだけど、中学まではそこまで感じたことのなかった疎外感というか、話の通じなさ・ノリの違い・空気間の原因が、環境や偏差値にあると短絡的に考えてしまった。だって無用な争いをするし、意味わからないし。ノリもウェイでついていけないし(これは陰キャラなせいだけどね!)だから今後そんな目に合わないためには、大学で軌道修正しなくてはと思った。勉強で困ったことは基本的になかったけど、授業は特に聞いていないし、それなりにだらだら過ごすし、教育家庭でもなかったのでそのままだとダメ方向に一直線だったと思う。

 だけど今でも、もう少し視野を広くしていれば、仲良くなれた人たちもいたし、気づかないだけできっと良い人も本当はいっぱいいたことに気づけたんだろうな。そういう人もいるだろうけど、高校で今でも会う友達はほんと少ない。

大学にはいろんな人がいるって噂は本当だった。

 大学に入ると、本当にいろんな人がいました。高校後期で初めて勉強をやり始めて、国立まで行けるような才能には恵まれなかったので、私立に入りました。そしてここで奨学金というホワイト目な借金を背負うという…。

 親にも言われてきて、自分でもそう思うんだけど、奨学金自体は借金という意識は変わらないんですが、借金の中ではまだホワイトな方だと思うんですよね。利率もすごく少ないし、一定期間返済を待ってもらえたり、場合によっては返済免除もありうるし。
 でも借金は借金。大学で軌道修正する過程で私は、数百万の借金を約束され、留年できないというプレッシャーを与えられ、したこともなかったような勉強をする日々が始まったのです。
 でもやれる…というかここで結果を出さないと一生自分は苦しまないといけないと思った。良い人たちの中にいれば、良い環境、恵まれた環境の中にいられれば、きっと人生をあきらめずに済む。ここで今までしなかった体験をしてみたいし、何よりも資格を取って就職して、一人でも生きていけるようにならないと…。

 大学にはお金持ちの家の子も多かった気がします。大学生時点車で通学してる、ブランドもので固めている、バイトもしてない、ずっと私立の学校しか知らない奨学金も借りず、留年しても親が出してくれる…~の息子・娘、みたいな。もちろん全員ではなく私のような苦学生もたくさんいたんですが、やっぱり何というか環境も恵まれて育ってきたんだろうなあという人たちが多くて(目立っているように思えて)、私はちょっとしたショックを受けながら通いました。これが格差…ほとんどの人がお嬢様お坊ちゃんに見える。ある意味孤独。それでも話の通じないような人たちの中にいるよりもよっぽど良かった。忘れられない人も何人かできたし今でも連絡を取り合う友達も何人もできた。

大学であった色々は省略しますが、何とかストレートで卒業し、資格も取り、就職までこぎつけた私は地方に出稼ぎに2年間行くことになりました。奨学金を返すために地方手当と家賃補助が必要だった。でもそこでパワーハラスメントに遭いました。

 ここも省略しますが、ニュースで最近は「パワハラ」という言葉も珍しくなくなり、昔なら問題にならなかったのかもしれないですが、今はちゃんと問題として扱う世の中になりましたよね。そのニュースを見ていて、「あれ、これで問題になるんだったら私の件も訴えられるんじゃね???」と思うこともままありました。奨学金が気になって辞めなかったけど、半年ごとに新人が消えてゆく場所でした。

 ですがそれをどうにか乗り切り、ある程度仕事も覚え、やっと地元に帰ることができた時には体調を崩してしまったのでした。
 すべて職場で起こることなので、適応障害的なものだと思うけど、パワハラの記憶が蘇って落ち着かなかったり、恨みを募らせてしまったり、身体がだるい・頭が重いなどの身体的な症状も出てきた。職場でだけ。
 そして過去の色々な後悔が浮かんでくるようになった。

・もっと学校も休んでおけばよかった
・家庭環境についてももっと早く気づいていればよかった
・無理に自分を作って相手に気を使わなくてよかった
・我慢せずにいればよかった
・パワハラをもっと早く対処してもらえば、環境を変えていればよかった

…などなど。なんだこれ、死ぬ前に後悔することリスト???

 私の場合ですが、我慢し続けてきた結果得られたプラス面(=負けず嫌いなので努力にはつながった等)よりも、我慢し続けて限界を迎え、PTSDのようなトラウマの反芻が起こるようになってしまったマイナス面が大きくて、現に今も体調が優れず時々休んでしまうようになった。

 今までは嫌な目に遭わされても、誰かを憎んだりすることも基本的にはなかったのに、我慢し続けてきたことなどで、過去のこともゆるせなく感じるようになった。攻撃的になってしまった自分に気づいた。過敏にもなった。
 何もわからずにいた頃よりも、自分が周りと比べて不遇だったこと、やり返しても良かったこと、自分中心に生きて良かったことに気が付いて、被害者意識が芽生えてしまった。
 
 でも、これって今生きている私くらいの家庭のひとたちなら大なり小なりわかることなんじゃないでしょうか。
 何も知らされず育って、自分から行動しないと何も手に入らない。いつの間にか侵害されてる・被害者にされてるそんな中流階級(下?)。
 ネットで今の結婚率出生率が低い理由の一つに、貧困が挙げられるという見解があった。そしてそれはその通りだと思うんですよね。私はきょうだいがたまたま学校嫌いで(私もだけど)進学をしなかったおかげで、奨学金を借りて自宅から通学できるようになった。(その分のお金を少し進学にまわせた。)進学して軌道修正できたけど、それもすごく大変だったし、途中で折れてる人もいたし、私も危うかった時もあった。結婚は今悩んでいるけど、家庭環境や自分の性格もあり、しないつもりで生きてきた。

 なぜ自分が漠然とつらい思いをしているのか、等考えてみると、それは私がASD/ADHDの傾向があるせいでもあるんですよね。
 だから、人といることにあまり価値を見出せなかった。悪口も興味ないし勝手にやってほしいです(毒)。気の合う人は別だけど。どうしても我慢ならないことが多々あった。聴覚過敏で学校などが苦痛だった。耳からの情報処理が苦手だった。女子の輪に入るのが苦手で苦痛だった。普通は感じないところでのストレスがすごく多い。
 そして家庭環境が良くなかったのも、家系的にASDなどの傾向が見られたせいもあると思う。もちろんちゃんと仕事して何なら出世して、和やかな人として生きているなんて人もいるけど、父方の家系の話を聞くと、自分の幼少期からの家庭環境に納得してしまった。

まちがいさがしのまちがいでも良いって言われたいし、そもそもまちがいだとおもわれたくなかった

 話が変わりますが、米津玄師のまちがいさがしって曲がありますよね。
私はその歌詞を聴いて思ったのですが、私は自分が他人からまちがいさがしの「まちがい」みたいな扱いをされることが物凄く哀しいんですよね。
 小学校中学校くらいは、少し変わってる子・不思議ちゃん、くらいで済んでいた話を、今は発達障害、アスペ、変人、犯罪者予備軍のような見方をされてしまうこともある。こんなに努力しているのに。気を付けているのに。それでもだめなの?じゃあ貴方の言動は?私に対して無配慮ではないの?そうやってそこに線引きをしないでほしい。

 私は谷山浩子というアーティストもずっと昔から好きなんですけど、その人のおすすめの書籍「普通という名の病」で、「一般の人は病気の人間を自分たちとは全く違う存在として医師を派遣している」「それでは両者のコミュニケーションは成り立たない」というニュアンスの文言があった。

 その通りだと思う。何かの病気だから・障害があるから・普通の人とは違う人だから仕様がない、という見方は、線引きだし、相手にされていないという気がする。私は誰かが考えていることをできるだけ理解したい・動機も重要だと思っているのですが、それを考えるのが相手に対しての誠意だとも思うんですよね。だから、この人は違うから、と分けてしまわれると相互理解を放棄されている気がする。自分を透明人間のように扱われている気がしてしまう。過敏になっている部分もあるかもしれないけど。
 自分が尊重されていないと、もういいや、とこちらからの配慮や気遣いも止めてしまいたくなる。学校の先生に期待されている子は他の子よりも成績が上がりやすいという話がありますけど、それの逆バージョンみたいに。素行不良にもなりたくなる。無理解はつらい。そう疑ってしまうようになるくらい我慢しつづけて、気持ちが崩壊してきている。

 これから自分がどうなるかわかりません。期待されていないと、それだけやる気を失ってしまったりもすると思うし、自己肯定を持てないことは結果的に周囲にも良くないと思うんだけど。

 私は「ケーキの切れる人間」です。切れるようになったし、これからも進歩していきたいという思いがある。この成長意欲を失わせないでほしい。そしてこれは全員に対して思うことだけど、「まちがいさがしのまちがい」のように私を含めた他人に思わないでほしいです。
 そして「ケーキの切れない人」にたいしても理解して、せめて理解を示そうとしておかしな方向に行かないように信じてあげてほしいと思う。

 職場の先輩が、辞めた先輩(おそらくASDとADHD併発で本当に仕事もできない)に対して「最初は普通だったのに騙された」「面倒見てやったのに」等言っていて、私はそのぽんこつな先輩に対して不満を持ちながらも頑張ってほしいと思っていました。人は変われるはずだ、私が変われたように。でも周りがだめな奴だと決めつけて、色眼鏡で見ていたら、変わりたくても変われないと思うんですよね。それを見ていて、哀しかったんですヨ。すごく綺麗ごとや偽善みたいだけど、信じてくれたら変わりたいと思うだろうし、その素直さはあったと思うのに。

 その話は前の記事にまとめています。気になる方はぜひ。

 兎に角思ったのは発達障害含め、他害的でない変わっている人のことをまちがいさがしのまちがいだなんて言わないでほしい。そしてまちがいであっても良いのだと思ってほしい。じゃないと進歩的でないし、つらすぎると思う。

 話を変えて、これから自分はどうなるのかなあ。仕事は好きだけど、女子の人間関係で躓きがちだし人生つら…客観的に見たら私もましなんだろうけど、そう考えられる能力が欠如してしまっている。悲観的。それをどうにかできたらなーと考えつつこの突発休暇をだらりと過ごすのでした。

おしまい。


参考文献↓
大学のころから発達関係の本はいろいろ読んでいたりします。

これは有名。本屋のランキングでずっと上位にある。
unlimitedでは読み放題です。

続き。

ドキュメント版。

漫画版もある。

日常での困りごとの解決に役立つ本。

超良い曲ですよね。
菅田将暉Verも米津玄師Verもどっちも好き。

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