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個性という言葉 幼稚園の現場から発達の凹凸について思うこと#2

私がずっと心に残っている幼稚園の思い出があります。
今から15年以上前、長女が幼稚園にいたときの話です。

保護者会のとき、同じクラスの保護者の方が、ご自身の子どもの発達障害について説明する機会がありました。25人ほどのクラスの保護者に向けて、絵本などを使って発達についての説明をし、小冊子も頂いた記憶があります。私は、勇気のある保護者の方だな、と思いつつ教室を後にしました。

廊下でほかのママ友と一緒にいると、絵本を持った保護者の方が出てきました。説明をしたせいなのか、日頃の育児の困難さからなのか、少し疲れた顔をしていたその方に友人が声を掛けました。
「これも個性ですよね」
いたわるような優しい声でしたが、私は内心ギクリとしました。
実は、私の姉がASDの傾向が強く、何かと集団生活で苦労している人です。今は適職について社会人として頑張っていますが、いろんな苦労があって常に身体の調子を崩しています。それを身近に感じて育った私が思ったのは、発達障害と診断されたお子さんに対して「個性」なんて言葉でまとめても良いんだろうかという驚きでした。はじめて聞くその美しいように聞こえる言葉に、私の心はザワザワしていました。
目の前のお母さまは、一瞬表情が凍り付きましたが、愛想笑いを浮かべてお礼を言いました。私はなんだか泣きたくなって、「大変ですね…がんばっていらっしゃいますね」と声を掛けました。目の前のお母さまは急に涙ぐんで頷きました。

友人のママ友はとても良い人で勉強熱心です。
知識として「発達障害も個性として認めてゆこう」という考え方をどこかで知り、なるほどその通りだと感じていたのだと思います。
ネットで調べてみても、当事者の保護者が知人からこの言葉を言われた経験はちらほらある、という意見が多数です。
同僚にこの「個性ですよね」と言うことの微妙さを話をしても、なかなか理解してもらえませんでした。

発達の凹凸は、私の長女にもあります。この幼稚園の事件のあった数年後、長女は聴覚過敏やコミュニケーションのすれ違いによるストレスで自律神経の不調が続き不登校になりました。心療内科で、自閉症スペクトラムと診断できなくもないけれど、この程度の人は沢山いるんですよね…と言われたことがあります。グレーゾーンという先生の見解だと理解しています。

誰にでも凹凸があるし、不得意なこともあります。

でも、発達障害と診断されるということは「日常生活を送るのに支障がある」という範囲に入るのだと診断されたのです。それは、通常の生活を不自由なく送っている方からするとなかなか実感できないようです。

どうしてこんなにもひっかかるのだろうと思い、多少強引なのですがこの「個性」という言葉についての例え話を考えてみました。

親知らずが生えてきて、日々「痛くなってきた、どうしよう」と悩んでいる人がいるとします。数か月後には口腔外科で手術をして抜かなくてはいけないかもしれません。
そんな方に「親知らずも個性ですよね」と声を掛けたらどうでしょうか。
なんか違うぞ、と思われるのではないでしょうか。

きっと、ここに書いた以上の違和感が、発達の凹凸の強い子どもを育てている側には生じると思うのです。現時点で感じていることは、不安と戸惑い、自責の念、我が子の将来への不安ではないでしょうか。
そんなときに「個性ですよね」と言われたときのさらなるダメージたるや。。私なら何も理解されていないな、と脱力します。人間できていませんから。「そんなわけないでしょ」と本音では言いたくなります。
かくいう私も、長女が不眠症&不登校だったときは、窓の外で元気に登校するお子さんを眺めては、毎朝羨ましく思っていました。世間という明るい地上を、地下三階くらいから見上げているような暗黒の日々。カウンセラーの方と話しても、何の希望もなくとぼとぼと歩く帰り道。PTAでも大失敗(それは私だけかもしれませんが…)。そういう人がコロナ禍によってさらに増加しているかと思うと、なんとかしなくてはと思います。

今は幼稚園で働いていますが、クラス担任の先生から「授業中にきちんとお話を聞けない子にはどう対応したらよいでしょうか?」と聞かれます。一斉保育の現場では、短時間でその子をどうにかしなくてはいけない場面が多いので、表現活動の時間にもきちんとさせなくては、と思われるのでしょう。
私からすると、その子にどう大人が対処するか、ではなく、その子自身のストレスを減らしたらいいだけじゃないの?と思います。(補助の先生の不在などでそれがなかなか出来ない状況も多いですが、対処だけを考える先生もいらっしゃるので)
私の授業時間はある意味自由時間でカリキュラムはなく、普段じっとしていられない子ども達が逆に生き生きと活動できる場所です。
対応ではなく理解が必要なのに、「時間がない」という一点で、凹凸のある子がどうにか対処しなければならない対象者になってしまう。悲しいですが、そんな事がいたるところで起きています…。
こんなときこそ、その子の「個性」を見ていきたい。何が好きか、どうしたら集中できる子なのか。バケツをそっと下げて、折り紙を持って来ようか、画用紙が良いか。周囲の子には「この子と、みんなにとっても必要なことだから」と説明しよう。特別扱いではなく、この子と一緒にみんなで楽しく生活できる方法を、その一瞬一瞬で判断し伝えていかなくてはなりません。
それはとても難しいのですが、そんなことをできるチームワークを先生同士で築き、インクルーシブな保育ができる幼稚園になって欲しい、と心から願っています。私もがんばります。

生活の中の障害を作っているのは大人や社会で、子どもはただ生きているだけです。
ひたすら生きてがんばって大きくなって、自分の困難を認め、これが自分なんだと思えるようになったら、そのときようやく障害は個性と言えるのではないかと思っています。


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