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震災ニュースで辛くなる現象について考えたこと

年明けからショッキングなニュースが続いている。こういうとき、被災していない人も悲しい気持ちや辛い気持ちになることがある。心を痛める、という言い回しがあるが本当にその通りだと思う。そして私は、その心を痛めることが度を超えるタイプの人だった。Twitterでビルマ内戦の動画が流れてきて号泣したことや、去年の3/11に震災のことを思い出して(自分は被災していないのだけど)電車で泣いたこともあった。何かと悲しい感情に弱くて、すぐ飲み込まれてしまう。でも今回の震災に関しては、心配や不安こそあったけれど泣くことはなかった(北陸の友人知人の無事が確認できたのもある)。これについて考えたことを書いておく。

思うに自分の心とそれ以外の世界のあいだには、膜のような境界がある(境界線と呼ぶ人もいる)。体で言えば肌のような、中身がむやみに飛び出したり侵食されたりしないように守る膜である。でもその厚みは定まっていなくて、ラップのように薄かったり防護服のように強固だったりする。そしてあまりに薄いと簡単に破れる。ショッキングなニュースは膜を破ってその人の心を食い尽くし、辛い気持ちで支配される。それは被災者や戦火の中にいる人々を思って心を痛めるのと違って、もっと受動的で襲われるような、コントロールのできない感情といえる。でも心の膜がある程度の厚さだったら、ニュースに突かれて少しへこんで(つまり心を痛めて)、そのあと元に戻ることができる。いわゆる健全な状態はこういう事じゃないかと思う。

それならどうすれば膜を厚くできるのか。いろいろあると思うけれど、私の場合は「自信」がひとつの鍵だった。そもそも膜は自分の心を守るもので、つまりその心が守るに値しなければ厚くする必要がない。逆に自分の心を(もしくは自分の思考や感性を)信じている状態であれば、それを守るために膜は厚くなる。そう考えることはできないだろうか。もちろん厚くしすぎて頑固になったり自信過剰であったりしても考えものなのだけど。程よくありたい。最近はそんなことを思っている。

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