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2023.6.7 【全文無料(投げ銭記事)】日本文化の根幹を築いた僧侶

「これだけの大事業を動かせるのは君しかいない」

東大寺の大仏建設時、天皇から総監督に任命されるほどの人望と実力を持っていた“僧侶”を貴方はご存知ですか?

今回は、現在でも、世界最大級の木造建造物として輝きを放ち続ける大仏殿を作り上げた“僧侶”を基に、『天平文化』というテーマで書き綴っていこうと思います。

本記事を読めば、天平文化を作り上げた“僧侶”の教科書では語られない功績などが分かってくるでしょう。


利根川の東遷、淀川の西遷

今の利根川は群馬県から東に流れ、銚子の辺りで太平洋に注ぎます。

しかし、江戸時代以前は、江戸湾(東京湾)に流れ込んでおり、一度洪水を起こすと頻繁に水路が変わり、流域は度重なる水害に襲われていました。

これでは安心して住むこともできず、田畑の耕作もできません。
そこで江戸時代初期に、60年もかけて現在の水路に変更されたのです。

この『利根川東遷事業』によって、江戸市中も安心して住めるようになり、且つ周辺に農地を広げる事ができたのです。

実は、大阪平野も同様でした。
一度大雨が降ると淀川が暴れ、流域を水浸しにします。

第16代仁徳天皇は、群臣にこうみことのりされたと日本書紀は伝えています。

<「いまこの国を眺めると、土地は広いが田圃たんぼは少い。
また河の水は氾濫し、長雨にあうと潮流は陸に上り、村人は船に頼り、道路は泥に埋まる。
群臣はこれをよく見て、溢れた水は海に通じさせ、逆流は防いで田や家を浸さないようにせよ」
といわれた。>

 

こうして築かれたのが、大阪城のすぐ北を通って河水を海に流す『難波の堀江』や淀川の流路安定のための『茨田堤まむたのつつみ』でした。

この二つは、日本最初の大規模な土木工事と呼ばれています。


しかし、その後も淀川の氾濫は収まらず、そこで西暦700年代前半に『淀川の西遷』が企てられ、見事に成功しました。

『利根川の東遷』に匹敵する大土木事業が、900年も前に実現されていたのです。
その中心となったのが、仏僧の行基ぎょうきでした。

当時の仏僧は先端技術者

行基は、 天智天皇が即位した西暦668年に、和泉地方(現・堺市辺り)で生まれました。

15歳で出家し、道昭どうしょうの教えを受けたと伝えられています。

道昭は唐に渡って、小説『西遊記』の三蔵法師のモデルとなった玄奘げんじょうの教えを受けたことで有名です。

日本に戻ってからは、井戸掘りや橋渡しなどの社会事業をしながら仏法を説きました。


行基は道昭に付き従って、土木技術を習得したようです。
当時の僧は、仏教のみならず医学や暦、土木、建築などの先端技術者でもありました。
行基は704年、36歳の頃から、生まれ故郷の和泉地方で小さな溜め池の築造などを始めました。

溜め池は水田に水を安定的に供給するために使われます。
工事現場の近くに寺院や尼院として道場を作り、そこで役夫えきふ(作業者)を泊め、彼らに仏教の道を説いたりもしていたようです。


豪族が農民のために稲を与えたり、農民の負担を肩代わりしてやった事例が幾つも記録に残っているので、豪族たちの協力も得ていたのではと考えられています。

豪族にしても、溜め池を作ることによって米の生産高が上がれば、自分たちの利益にもなります。

天平の『所得倍増計画』

養老6(722)年、朝廷は『良田一百万町歩開墾計画』を立てます。

人口増加により、口分田として支給する田地が足りなくなっており、新たに百万町歩の田を開拓しようという計画です。
百万町歩がどれ位か、かつて建設省の河川局長まで務めた尾田栄章氏が分かりやすく、こう説明しています。

「当時の人口約600万人から推定すると、既に開墾されていた水田面積は60万町歩から90万町歩。」

ということは、百万町歩の開墾とは、水田面積を倍増以上にしようという大胆な計画なのです。

尾田氏は、これを『所得倍増計画』とも言うべきと指摘しています。


その手段として、翌年に制定されたのが『三世一身法』です。

これは、新しく灌漑用水路を作って開墾した場合は本人、子、孫の3代の使用を認め、既存の水路を利用した場合は本人一代限りの使用を認めるというものでした。

開墾では田を切り拓く事よりも、新たに水を確保する事の方が大変なのです。



また、『良田一百万町歩開墾計画』では、収穫量3000石以上の開墾をした場合は、勲六等の叙勲、1000石以上には終身課税免除という報奨も設定しています。

3000石と言えば、120町歩、男600人分の口分田に相当します。


こうした規定から、朝廷は民間による大規模な開墾を期待している様が浮かび上がってきます。

この頃、行基は数千、数万の人々を率いて、相当規模の貯め池の築造や開墾事業を展開しており、良田一百万町歩開墾計画と三世一身法は、正に行基のような民間の大規模開墾に期待した施策だったようです。

1m当たり2~3mmの勾配の導水路掘削

行基率いる集団の高度な灌漑技術は、現在の大阪府岸和田市にある久米田池くめだいけに見ることができます。

久米田池は広さ45.6ha、貯水量157万t、周囲約2650mの大阪府内最大の面積を持つ溜め池です。

神亀じんき2(725)年から天平10(738)年まで14年掛けて造られたと伝えられています。
1300年経った現在でも、溜め池として活用されています。


三方を自然の台地に囲まれ、残りの一方に堤防を構築して、溜め池とされました。

しかし、問題は、どこから水を引くかです。
すぐ横に牛滝川という水量豊かな河川が流れていますが、その水位は久米田池の最高水位より10mも低いのです。


そこで、牛滝川を6kmほど遡って、10数mほど高い地点から緩やかな傾斜の導水路を作って、久保田池に注ぎ込むという手法がとられました。

この辺りの地形の勾配は300分の1から500分の1。

ということは、1m当たり2~3mmです。
これだけの精密な傾斜を持つ6kmもの導水路を作る技術を、行基集団は持っていたのです。


これだけ高い水面を持つ久米田池からなら、牛滝川よりも高い処にある土地にも水を送れます。

それによって、流域でより広い水田を拓くことができるのです。

淀川中下流域の総合開発事業

天平2(735)年以降は、それまでの経験を活かし、畿内全域での大規模な開墾事業が展開されました。

冒頭で述べた淀川中下流域の開発も、この時期に行われています。


淀川中下流域とは、現在の枚方ひらかた市の辺り、延長10km、幅2km、面積約20平方kmの広大な沼地を一気に農地に変えようという大事業です。

面積1820町歩は、口分田で言えば9100人分にも当たります。

この沼地を農地にするためには、

・淀川の氾濫を防止する治水対策

・沼地となっている地域の干陸化、そのための排水対策

・灌漑施設の整備による用水対策
 
の3つの施策を総合的に進めなければなりません。

治水対策の柱は、水量を他の河川などに分散させる放水路を作ることです。

行基集団は淀川から、北に並行して流れる神崎川などに3本の放水路を作りました。

うち2本は幅200m級です。
放水路は幅が大きいほど、洪水時に吸収できる水量が大きくなり、氾濫の危険性が減少します。
更に、平時にも水面が低くなり、それだけ周囲の田からの排水も容易になります。

行基集団は同時に、淀川に堤防や橋を何箇所にも設けています。

尾田氏はこうした行基の規模壮大な事業について、こう評しています。

<
行基集団は・・・雄大にして総合的な事業を実施した。
単に規模だけではなく、事業内容をみても幾つかの事業が複雑に組み合わされて統合されている。
今なら間違いなく「○○地域総合開発計画」と呼ばれる内容を持つ。>

尾田氏は行基集団のバックに朝廷の支持があったと指摘していますが、それにしても、民間人たちが主役となって、これだけの事業を展開するだけの民力の高まりには驚かされます。

行基が結集した民の力で作られた大仏

 聖武天皇による大仏鋳造の詔は、天平15(743)年に出されました。

 聖武天皇の治世の初期は干魃、地震、天然痘などの天災が何年も続き、それに対して、天平9(737)年暮れにこう記しています。

<すでに天平四年夏の早魃以来、飢饉、大地震、天然痘と六年連続して天災が襲ってきた。
災異を予の治政に対する天帝の譴責と受け止め、飢餓に苦しみ疾病に苦しむ民を救うべく、恩勅を下し、米穀・湯薬の施与、出挙(稲の種籾の貸出し)の利息・田租(田地に課せられた税)等の免除など、あらゆる手段を講じてきた。

責めは予一人にありと罪人にすら君主としての徳を施したつもりである。
だが果たして、それで民を救い得ていたであろうか。
かねて予は治政の範を得ようと、さまざまな典籍をひもとき、その結果、民を治めるには唐上の教え(儒教など中国の教え)より仏法のほうがすぐれていると確信した。

そのことは天平六年一切経書写にさいし、巻末の願文に記させた。
だが予はその思いを具体的に民に伝える手段を講じてこなかった。>

いくら仏法が優れていても、それを民一人ひとりが心に受け留めて、互いへの思いやりを持ち、それぞれが国家共同体のために尽くすようにならなければ、幸福な国家は作れないと考えたのです。

そういう思いを持つ 聖武天皇が、行基集団の技術力、動員力、そして国家人民のための志に着目したのは当然でしょう。


行基は大仏造営の勧進役、すなわち寄付や労働提供の募集責任者に任命されました。

大仏の建造費は現在価値で約4657億円に上ると試算されていますが、その相当部分は地方の豪族たちからの寄付でした。

また大仏造立には、延べ260万人もの民が参画しました。
これだけの規模の寄付や労働提供が集まったのは、行基集団の力があったからこそでしょう。

 

因みに、大仏造立に参加した役夫の消費など、経済波及効果は約1兆246億円に上ると推定されています。
大仏造立は民間の活力が発揮され、その波及効果も広く民に及んだのです。

民を育て、その力を引き出した行基

行基の事業では、広く民を『大御宝』として大切にしようという姿勢が見られます。

治水利水架橋などの工事現場では、必ず道場が作られ、そこで役夫たちは寝泊まりしながら仏教も学びました。

その道場について、尾田氏はこう指摘されています。

<
行基という傑出した指導者の下で、多くの凡人がおのれの特技を鍛えあげ、それぞれの分野におけるエキスパートにまで熟達する。
その切磋琢磨に使われたのが道場、その徹底的な活用から集団としての凄さが誕生したのである。>



道場に寝泊まりし、工事に参加することで、人々はそれぞれの技術分野でのエキスパートに育っていったのです。

まさに『処を得た大御宝』になり、その総力が結集されて、巨大な地域開発事業として花開きました。

道場は男女別で、男性用の寺院に併設して女性用の尼院が建てられました。

ただ、現在の堺市にあった深井尼院は単独に建てられており、尾田氏は近くの薦江池こもえいけ(現在の菰池こもいけとも考えられている)は、女性が主役となって作られたのではないかと推測されています。

口分田は、女性も男性の3分の2の大きさを与えられていることから、我が国は古来から、西洋や中国とは違って男女共同参画社会だったようです。


また、天平13(741)年、奈良県と京都府の県境近くを流れる木津川の和泉大橋の架橋のために道場として泉橋院が建てられました。

そこに 聖武天皇が行幸され、74歳の行基が迎えて終日対談しました。
その際に、行基が、
「猪名野(兵庫県伊丹市辺り)に給孤獨園ぎっこどくえんを造りたい」
と申し出て、許されました。
孤は孤児、獨は身寄りのない老人を意味します。



伊丹市には昆陽池こやいけという大きな池がありますが、高度成長期になされた埋め立ての前は、その3倍もの大きさがありました。

その池を行基集団は造って、この辺りの地域総合開拓も行ったのです。


開拓した水田の一部の150町歩、成人男子750人分の口分田に相当する田地が、この給孤獨園の経済的基盤として充てられました。

そこでは、孤児や老人たちも農作業に精を出して働いたことでしょう。
これなら他からの寄付に頼ることなく、自立して運営していけますから。


こうした民間活力による国土創成はその後も続き、尾田氏は延歴4(785)年、行基没後36年経った後でも、近江の人が私財を投じて、3万6000余人を動員した工事をしたという記事を紹介しています。

互いに力を合わせて国を支える大御宝の姿

「日本の社会資本整備には民が大きく関わっている」
と尾田氏は述べ、
「この系譜の劈頭へきとうに位置するのが行基」
としています。
我が国は 神武天皇が即位にあたって、民を大御宝と呼び、
<大御宝を鎮むべし>
との詔を発せられました。

大御宝を大切にするとは、現行憲法第25条に掲げる
『健康で文化的な最低限度の生活を営む権利』
を保障するだけでは足りません。


民は、それぞれ処を得て、自らの個性、能力を発揮して、それぞれの一隅で国家社会を支えるのが理想です。

そうした自己実現を図ってこそ、人間としての生き甲斐も得られるのです。



 聖武天皇が大仏造立に関して、
<一枝の草、一把ひとにぎりの土>
でも良いから、と民に協力を呼びかけられ、延べ260万人もの人々が参加した光景は、正に互いに力を合わせて国を支える大御宝の姿を実現したものです。

 聖武天皇の祈りを、民の側のリーダーとして実現したのが行基であったと言えるでしょう。

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