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2023.7.6 【全文無料(投げ銭記事)】竹島問題~河野一郎の素人外交~

大統領が尹錫悦ユンソンニョル氏になって、日韓関係は良くなっているという方もいますが、ではなぜ依然として慰安婦問題、徴用工問題、そして日本と韓国の間に横たわる『竹島問題』が、いつまで経っても解決しないのでしょうか?

その原因は、過去の歴史から続く韓国の信じられない外交姿勢を知れば、見えてくるかもしれません。

韓国側は、
「1900年に独島(竹島)は韓国領だという宣言をした」
と主張しているのですが、その論理は、国が考えたものとは思えない小学生の屁理屈のようなものでした…。

今回は、竹島問題をテーマに書き綴っていこうと思います。


『竹島の日』に「おめでとうございます」?

島根県では毎年、2月22日を『竹島の日』とし、“竹島の領土権確立”を目指して“竹島問題の啓発”を目的とする式典を松江市内で開催しています。

国会議員や政府の要人が参加しますが、演台で
「本日はおめでとうございます」
と、挨拶する人がいるそうです。

この点について、島根県『竹島問題研究会』座長を務められた拓殖大学の下條正男教授はこう苦言を呈しています。

<だが、式典開催は決してめでたくはないのである。
「竹島の領土権」が確立されていないから、この式典が行われている。
どうも式典の開催意図が伝わっていないようである。>

竹島が日本に返還されて“竹島の領土権”が確立したら、式典自体が不要になります。

関係者はそれを目指して努力しているのに、
「おめでとうございます」
では、式典の意味が分かっていないのではと、下條氏は懸念されているのです。

また、こうも言われています。

<さらに若手の議員さんということもあるのだろうが、「ともに頑張りましょう」と言う人もいる。
こう言われても困ってしまうのが島根県の立場だ。
島根県議会が「竹島の日」条例を制定したのは、竹島問題の解決を日本政府や国会議員に陳情しても動かなかったから、やむなく国からの圧力をはねのけて実行したものだ。
その歴史を知らずに、のこのこと「竹島の日」式典にやってきてもらっては困るのだ。>

竹島は領土問題なのだから、本来は日本政府が取り組むべき問題です。

しかし政府は動かず、やむなく島根県が『竹島の日』を制定したら、却って圧力をかけてきたのです。

そういうことを知らず、反省もせずでは、日本政府の領土問題への取り組みは、いつまで経っても正常化しません。

今回は、島根県の『竹島問題研究会』の活動状況を見ながら、領土問題への取組姿勢について考えてみましょう。

そこには韓国側と日本側のそれぞれの問題が絡まり合っています。

日韓交渉の人質とされた抑留日本人漁船員

竹島は閣議で、
「他国に於いて之を占領したりしと認むべき形跡なく」
として、明治38(1905)年2月22日、島根県に編入しました。

大東亜戦争敗戦後のサンフランシスコ講和会議に、韓国政府は、
「日本は、対馬、パラン島及び日本海内の独島(竹島)に対する領有権を放棄すること」
という要求を送りましたが、米英から正式に拒否されました。

米国のデーン・ラスク国務省極東担当次官補から韓国政府への書簡が送られ、その中でこう回答されていました。

<ふだんは人が住まないこの岩の塊は韓国の一部として扱われたことがなく、1905年以降、日本の島根県隠岐島司の管轄下に置かれていた。
韓国はかつてこの島にたいして権利を主張していなかった。>

抑も対馬は日本人が昔から居住してきた日本領土であることは明らかであり、また『パラン島』とは存在も確認されていない島でした。

これらと一緒に竹島を要求するのですから、その国際的非常識ぶりに英米はじめ諸外国は唖然としたでしょう。

その後、韓国は李承晩ラインを一方的に引いて竹島を自国領海に含め、その近辺に近づく日本漁船を拿捕し始めました。

日本はまだ米軍占領下にあり、また米軍も朝鮮戦争中だけに抗議に留めました。

『日韓漁業対策運動史』(日韓漁業協議会)によると、日韓の国交が正常化する1965年までの間に、韓国側に拿捕された日本漁船は328隻、抑留された日本人漁船員3929名。
死傷者は44人に上りました。
その損害額は総計90億3100万円に達します。

下條氏は、韓国側が無法な李承晩ラインを引いた目的は、拿捕抑留した日本人漁船員を人質にして、日韓正常化交渉を以下の2点で有利に進めるためだったと主張しています。

第一に、朝鮮経済の8割にも達する日本側資産が半島に残されており、これを返還したら韓国経済は成り立ちません。

第二に、戦後の朝鮮戦争、内乱、粛清などで、終戦後だけでも7万人近くの密航者が日本で検挙されています。

これらの密航者が一気に送還されたら、韓国国内が更なる混乱に陥ります。

そこで韓国は、日本に対して、日本資産は返還せず、密航者の在日韓国人には“法的地位”を与えるよう要求したのです。

その際の外交カードとされたのが、抑留された日本人漁船員でした。
同時に、韓国政府は竹島を“日本による朝鮮侵略の最初の犠牲の地”とすることによって、日本人漁船員拘束を正当化したのです。

国が動かないなら、自分たちがやるしかない

竹島問題は、日韓交渉の最後の難関でした。
ここで、交渉を担当した河野太郎氏の祖父である河野一郎氏は、
「竹島は国交が正常化すれば、互いにあげようとしても貰わないくらいの島」
などと奇矯な言辞を用いていました。

そして、
「竹島・独島問題は、解決せざるをもって、解決したとみなす。したがって、条約では触れない」
という密約を結びます。

これによって、竹島問題は棚上げされた形で、1965年に日韓基本条約が結ばれます。

息子の河野洋平氏の慰安婦談話と同様、日本国に大きな禍根を残した素人外交でした。

以後も韓国は竹島を正式領土扱いして、周辺水域でも日本漁船の操業を認めず、地元の島根県は経済的に大打撃を受けていました。

島根県は政府に領土問題解決を強く求めましたが、政治家も官僚も、そして民間でも竹島問題への関心は薄れていきました。

やむなく、島根県が2005年に『竹島の日』条例を制定してから、竹島問題が再び全国的な注目を集めました。

折りしも、この年は日韓の国交正常化40周年にあたり、両国政府は“日韓友情年”としていたため、日本政府は島根県の動きには批判的でした。

当時、自民党の小泉純一郎政権は、『竹島の日』条例の制定を阻止するため、島根県議会にファックスを送って圧力を加えてきました。

外務省のある高官は、
「実効的には何の意味もないことを県民感情だけで決めるのは、率直に言っていかがなものか」
と批判しました。

<だが島根県としては、韓国政府によって日本の国家主権を侵されている事実を問題とし、国が動かないなら、自分たちがやるしかないという思いだった。>

いっそのこと島を譲ってしまったら

『竹島の日』に関しては、朝日新聞も“存在感”を発揮しました。
論説主幹の若宮啓文氏は、こんなコラムを載せています。

<日の丸が焼かれる。
抗議のために指を詰める。
「日本人お断り」のゴルフ場が現れる。
「竹島の日」に対抗して「対馬の日」を定めようとの自治体まで出てくる。
韓国政府は「断固対処」の対日新原則を発表し、やがて慮武鉱大統領は「外交戦争」と言い出す。
・・・
例えば竹島を日韓の共同管理にできればいいが、韓国が応じるとは思えない。
ならば、いっそのこと島を譲ってしまったら、と夢想する。
見返りに韓国はこの英断をたたえ、島を「友情島」と呼ぶ。
周辺の漁業権を将来にわたって日本に認めることを約束、ほかの領土問題では日本を全面的に支持する。
FTA交渉も一気にまとめ、日韓連携に弾みをつける――。
・・・
いやいや、そんな芸当のできる国でなし、だからこれは夢想に過ぎないのである。>

竹島を武力で奪われ、4000人近くも不当に抑留された事実は伏せて、友好一本槍の“夢想”、というより“妄想”を説く。

領土問題に関する国際常識もない。

こういう人物が、韓国では、
「良心的な日本人」
と呼ばれ、しばしば講演などに招かれて、韓国側の主張正当化に利用されているのです。

緻密な学問的研究で韓国側の主張を論破

「国が動かないなら、自分たちが」
という覚悟で島根県が取り組んだのは、県直轄の『島根県竹島問題研究会』を設立し、竹島に関する学問的な研究を深めて、韓国側の言い分を逐一否定していくという地味な作業でした。

例えば、韓国側は竹島は西暦512年以来、韓国領だったと主張しています。

その根拠は、第一に1140年代に編纂された『三国史記』に新羅時代の512年に、
<于山国が帰服>
したとあり、第二に1707年に編纂された『東国文献備考』の分註に
<輿地志に云う、鬱陵島と于山島は皆于山国の地。于山島は倭の所謂いわゆる松島(現在の竹島)なり>
とあります。

この二つを繋げて、于山島は竹島であり、その于山島は512年に新羅に帰服していたから、竹島はその時点から韓国領だったというのです。

竹島問題研究会がまとめた『竹島問題100問100答』では、
<輿地志に云う>
と言及された原典を調べて、その分註には、
<于山島は倭の所謂いわゆる松島(現在の竹島)なり>
などという文はないことを確かめています。

随って、韓国側の論理は成り立ちません。

こういう緻密な資料批判に基づく学問的研究に対し、韓国側は真面まともな反論もできずに、
「極右主義の御用学者である下條正男」
などと悪罵を投げつけるだけでは、韓国の主張は国際社会ではまともに受け止められないでしょう。

地道な学問的研究によって、韓国側の主張を論破していくという竹島問題研究会のアプローチこそ、国際社会での歴史論争における正攻法なのです。

他者に責任と反省を求める「反正」の歴史学

竹島研究会の学問的な反論に対しては、韓国側からも“活発な”反応があります。

韓国側にとっても無視できない点を衝いているからです。
この点について、下條氏はこう語っています。

<単に日本側の主張を繰り返すだけでなく、相手の主張の誤りを批判することで、相手からも反論があり、応酬が成立しているのだ。
これは望ましい傾向で、韓国側の反論にはそもそも理がないため、再反論することで韓国側の主張はどんどん狭められ、無理筋な理論で押し通そうとし、こちらの反論のポイントをずらしてきたりする。
それによって、韓国にとってどの部分への言及が効くのか、その弱点が見えてくるのである。>

“韓国側の反論にはそもそも理がない”
“無理筋な理論で押し通そう”
というのは、なぜでしょうか。

それは、
「竹島はかつて韓国領だった」
「日本の韓国侵略の第一歩だった」
というような史実にもとる主張を無理矢理、真実らしく見せようとしているからでしょう。

同時に、韓国の歴史に対する認識の仕方が抑も違っているからだと、下條氏は指摘します。

<日本では「過去(歴史)」は客観的検証に耐え得る事実を扱うものだ。
だが韓国の場合は、過去の歴史を「反正」しようとする志向性がある。
つまり、「間違っていた過去」を「正しいものに変えていく(反していく)」意識が強いのである。
しかもその「反正」は、自らが反省するのではなく、他者に責任と反省を求めるのが特徴である。
そのため、韓国で「過去(歴史)」を考える場合、「反正」を迫る対象が必要になり、その対象に過去の清算と謝罪を要求するのである。
この「反正」の意識は、韓国で世代交代が進んでも薄まることなく、過去に対する清算と謝罪の要求が繰り返されることになる。>

こういう前近代的な歴史観から生み出されているのが、慰安婦問題、竹島問題、徴用工問題、日本海呼称問題なのです。

こんな歴史観は先進国からは相手にされません。

日本が近代的な歴史研究によって一つひとつ論破していかないから、プロパガンダとして世界に通用しているだけです。

日本との論戦を通じて、韓国側に近代な歴史研究の方法論を学んで貰わなければ、いつまでも不毛な歴史論争は収まりません。

100%の友好国も、100%の敵対国もない

韓国との間で慰安婦、竹島、徴用工など、次々と歴史認識問題が生ずるのは、韓国側の前近代的な歴史意識もさることながら、日本側の姿勢にも問題があるからです。

それは国家間の関係を
“100%の友好か、さもなければ100%対立”
という両極端で捉えてしまう傾向です。

「日韓友好年だから、竹島の日のように友好に水を差すような真似をするな」
というのは、友好100%の姿勢です。

逆に戦時中の“鬼畜米英”とは100%対立の姿勢でした。

国家間の関係は、お互いに様々な分野で多様な集団が織りなす多元的な関係です。
友好95%でも、竹島のことだけは許せないという5%の対立があってもしかるべきなのです。

友好国であっても、言うべきことは言う。
逆に言うべき事も言えずに、友好100%のフリをするのでは、真の友好とは言えません。

かつての大英帝国の政治家パーマストンは
「わが英国にとって、永遠の同盟もなければ永遠の敵もない。あるのはただ一つ、永遠の英国の国益のみ」
と言ったそうです。

いかにも大英帝国らしい現実主義外交の知恵ですが、それになぞらえれば、こう言えるでしょう。

「我が国には100%の友好関係も、100%の対立関係もない。道義と国際法をベースに、是々非々の付き合いをしていく」
これこそが真の友好関係を築いていく道でしょう。

友好の為には、相手国の非道にも目をつぶるという姿勢では、真の友好関係は生まれません。

対韓外交では、我が国はこの点を学ぶ必要があるのではないでしょうか。


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