2024.4.10 【全文無料(投げ銭記事)】なぜ日本はユダヤ人を救ったのか
「世界はアメリカを文明国という。私は、世界に日本がもっと文明国だということを知らせましょう」
この言葉は、独ソによって逃げ場を失ったユダヤ人を助けるために、杉原千畝が国策に則って発した有名な言葉です。
多くの方が杉原千畝とユダヤ人の関係をご存知でしょうが、本記事はヒレル・レビン著『千畝』を通して、先人から受け継いでいる日本人の誇りを書き綴っていこうと思います。
あなたは彼らの運命を心配してくださった
この手紙の“あなた”とは、杉原千畝のことですが、1940(昭和15)年、リトアニアの在カウナス日本領事代理として、逃げ場を失ったユダヤ人に2139通の日本通過ビザを出し、その何倍かの人々の命を救いました。
杉原に贈る祝福
手紙の主は、ボストン大学のヒレル・レビン教授、現代のアメリカを代表する歴史家といわれています。
1993年2月、教授はリトアニアの首都ビリニュスに設立されたユダヤ研究所の講義に招待されました。
その折、教授はカウナスで杉原がユダヤ人難民にビザを発行した領事館の建物を訪れます。
冒頭の手紙は、既に7年前に他界していた杉原に宛てたものです。
「あなたはなぜユダヤ人を助けたのか?」
レビン教授はこれを明らかにすることが、杉原への“祝福”だと考えました。
杉原の遺族、友人、同僚、救われたユダヤ人たちなどを尋ねて、教授は世界中を旅します。
そして、杉原の実像が徐々に姿をあらわしてきました。
逃げ場を失ったユダヤ人
「ユダヤ人が西欧文化から放り出されようとしていた時代」
「憎悪で対立していた世界」
とはどのようなものだったのか。
1939年9月、独ソがポーランドを分割し、大量のユダヤ人難民が発生しました。
ユダヤ人難民たちは、“東欧のスイス”と呼ばれたリトアニアに逃げ込んだものの、そこも1940年8月にはソ連に強制的に併合され、“屠殺”が始まりました。
カウナスの樹という樹には、誰かが吊されていました。
ユダヤ人お断り
逃げ場を失ったユダヤ人たちに国際社会は冷たいものでした。
1939年6月、ユダヤ難民1128人を乗せたセントルイス号がハンブルクを出港してアメリカに向かいましたが、アメリカは入港を拒否。
殆どの乗客が正規の書類を持ち、アメリカの親戚が経済的責任を負うと保障しましたが、一人として上陸できず、船はホロコーストの待つヨーロッパに戻る事になりました。
この呪われた航海は“ユダヤ人お断り”の象徴となり、後に映画にもなりました。
カウナスのアメリカ領事館にも、ユダヤ人のビザ申請が殺到しましたが、移民の割り当て枠がないとして申請受付を停止しました。
しかし、領事自身が、
「現実にビザが発行されたのは、移民割り当ての49%だった」
と認めています。
また、ポーランドの1939~1940年の移民割り当ては6524人でしたが、うち5000人分が手付かずで残されました。
同様に、イギリスもユダヤ人のパレスチナ上陸を拒否し、スウェーデンは15歳~50歳までの男性ユダヤ人は兵士になる可能性があるから同国の中立性を脅かすとして、通過ビザさえ認めようとはしませんでした。
1分ごとに生命が救われているのを見た
「世界はアメリカを文明国という。私は、世界に日本がもっと文明国だということを知らせましょう」
ユダヤ教の導師E・ポートノイに、杉原はこう語りました。
ポートノイはミラー神学校の生徒300人分のビザを手に入れようと、アメリカ領事館に掛け合いましたが、
「割り当てビザなど一枚もない」
と突き放されたばかりでした。
杉原がポートノイの長い話を聞き、ビザの発行を約束して握手し、いつもの微笑を贈った時、ポートノイは信じられない思いでした。
ミラー神学校の生徒ズブニックが300枚分のビザを貰いにやってきた時には、日本領事館の前にはユダヤ人の長蛇の列ができていました。
杉原のドイツ人秘書が、こんなに大勢は処理しきれないと音を上げると、ズブニックが手伝いを申し出たのです。
杉原の横でビザ発給を手伝いながら、ズブニックは1分ごとに生命が救われていくのを見ていました。
彼は、
「生涯最良の2週間だった」
と語っています。
彼は手を挙げ、大丈夫と微笑んだ
当時16歳の娘だったL・カムシは、レビン教授にこんな思い出話を語っています。
日本帝国全体の原則
ドイツやソ連に追い立てられ、アメリカ、イギリス、スウェーデンにさえも門前払いを食わされていたユダヤ人。
「誰もが閉ざした扉を、どうしてあなただけが開いたのか?」
レビン教授の届かなかった手紙は問いかけます。
この疑問に駆られてレビン教授は、杉原の子供時代からの一生を辿り、更に当時の日本の外交政策まで丹念に調べていきます。
そして発見したのは、扉を開けていたのは杉原だけではなかったという事でした。
1940年~1941年にかけて、ヨーロッパの都市にある12箇所以上の日本領事館で、ユダヤ人へのビザが発行されていました。
特に目立ったのは、カウナス以外ではウィーン、プラハ、ストックホルム、モスクワなどでした。
その前提となったのが、1939年12月の5相会議(首相、外相、蔵相、陸相、海相)で決定された「猶太人対策要綱」でした。
ここでは、ユダヤ人差別は、日本が多年主張してきた人種平等の精神に反するので、あくまでも他国人と同様、公正に扱うべきことを方針としていました。
当時の外相、杉原の直接の上司だった松岡洋右はこう言っています。
「いかにも私はヒットラーと条約を締結した。しかし、私は反ユダヤ主義になるとは約束しなかった。これは私一人の考えではない。日本帝国全体の原則である」と。
難民を感動させた神戸での援助
謂わば、ヨーロッパ各地の日本領事館の扉は、人種・国籍に拘らず、ユダヤ人に対しても公平に開かれていたのでです。
そして杉原は、偶々多数のユダヤ人難民が追いつめられていたカウナスで、職権上許されるギリギリまで、その扉を広く開けて彼らを迎え入れました。
杉原はソ連の命令でカウナスの領事館を閉ざしてからもプラハの領事代理となり、そこで更に多くのビザを発給しました。
この頃、松岡外相は各国派遣大使の大量馘首に着手していましたが、杉原はそれを免れています。
外務省は杉原の行為を問題視していなかったのです。
松岡の言う『日本帝国全体の原則』は、ビザの発給だけではありませんでした。
難民たちはシベリア横断鉄道の終点ウラジオストックから、船で敦賀港に渡り神戸に出ます。
日本の警察官、通関担当者は皆親切でした。
前節のL・カムシ姉妹は、杉原が発給したビザは滞在期間が10日間なのに、2ヶ月間も神戸に留まることができました。
神戸では、ユダヤ人協会や多くの神戸市民が援助してくれたのです。
その後、アメリカにいた親戚から届けられたビザでサンフランシスコに渡りました。
今はニューヨークの郊外で暮らしています。
ビザの取れないユダヤ人には、上海に渡る道がありました。
当時、この国際都市は日本軍占領下で、2万7000人を超すユダヤ難民が比較的安全に暮らしていました。
杉原とシンドラーとの違い
杉原は『日本のシンドラー』とよく呼ばれますが、両者の行為は本質的に異なります。
私財を擲って、ユダヤ人たちを助けたというシンドラーの行為は、あくまで個人的な善行です。
それに対して、杉原の行為は、『日本帝国の原則』に基づいた国策に則ったものでした。
それは、人道と国際正義に適うものであると同時に、日本の国益にも繋がるものでした。
日本がロシアの侵略から独立を守るべく日露戦争に立ち上がった時、ロシアのユダヤ人同胞を救おうと日本に協力したのが、アメリカのユダヤ人指導者で銀行家のジェイコブ・シフでした。
日露戦争の総戦費19億円のうち、12億円がシフを通じて引き受けられた外債によるものでした。
日本人はシフの助力に深く感謝し、ユダヤ人への好意を抱いていったのです。
しかし、1924年に成立したアメリカの移民法は、日本人とユダヤ人の移民に対して最も厳しいものでした。
行き先を失ったユダヤ人は難民として中東欧に留まり、反ユダヤ主義の標的となりました。
また、日本人移民はアメリカから閉め出され、満洲へと向かいました。
ユダヤ人が独ソから追い立てられ、米英からも閉め出されて逃げ場を失った時、日本も英米のブロック経済化と石油や鉄鋼、機械などの対日禁輸政策により生存圏を奪われつつありました。
この時、日露戦争の時と同様、日本は生存のためにユダヤ資本との結びつきを探っていたのです。
ユダヤ人と日本人は、共通した悲劇的運命を生きつつありました。
そこに互いへの同情と連帯の心が生まれるのは、自然の成り行きと言えるでしょう。
『文明国』とは…
「世界はアメリカを文明国という。私は、世界に日本がもっと文明国だということを知らせましょう」
冒頭にも記した杉原の言葉は、このような状況の中で発せられました。
それは、広大な国土を持ちながら、人種差別の感情から日本人やユダヤ人移民のみを厳しく制限したアメリカへの痛烈な竹箆返しでした。
杉原が言った『文明国』とは、進んだ科学技術や経済力を持つ国の事ではありません。
その国策が国益を追求しながらも、同時に人道と国際正義に適い、他国との共存共栄を目指す国だと定義できるでしょう。
ユダヤ人の虐殺や追放を国策とした独ソは言うに及ばず、人種的理由から厄介者扱いした英米も、この点で『文明国』とは言えません。
杉原は少なくとも、人種平等という点においては、日本の方が遥かに文明国であることを知らしめようとしたのです。
その行為は、個人的な善行というよりは、日本国民を代表する公的なものでした。
レビン教授は次のように話しています。
杉原への尊敬の念は、日本人全体に及ぶべきものだとレビン教授は語っています。
だとするならば、現代の私たちは、それに値するような『文明国民』になるべきだという課題も、同時に継承していると言えるのではないでしょうか。
最後までお読み頂きまして有り難うございました。
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