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2021.10.13 「国民に寄り添う皇室」起源は○○天皇

国際協調に基づく積極的平和主義

時が流れるのは早く、もう頭の片隅にも残っておられない方も多いでしょうが、2017年5月27日に、安倍元首相が地中海の島国マルタにて、第一次大戦中の日本軍戦没者の墓地に献花して黙祷を捧げました。

この日本軍戦没者の墓地は、1917(大正6)年、日英同盟に基づくイギリスの支援要請に応えて派遣された駆逐艦隊が、地中海で暴れ回っていたドイツ帝国軍の潜水艇からイギリス・フランスの輸送船を護った戦いで戦死した英霊の墓になります。

大戦後の日本は、世界平和を実現するために設立された国際連盟に常任理事国として参加。

特にその連盟規約に人種平等を謳おうと奮闘して、世界の有色人種の衆望を担いました。

さらに、日本は、1921年からのワシントン軍縮会議に主要国として参加し、世界平和を牽引してきました。

当時、安倍首相はフェイスブックで、
「万感の思いを込め、御霊みたまの平安をお祈りしました。日本は、世界から信頼されていますと、申し上げました。日本はこれからも、国際協調に基づく、積極的平和主義を貫きます。墓前で、誓いました」
と発信しています。

まさに、この『国際協調に基づく積極的平和主義』のモデルが大正日本であり、その象徴を体現されたのが大正天皇でした。

さらにドイツ、ロシアなどの王室帝室が次々と消え去って行く中で、大正天皇は、国内にあっては『皇室と人民の接近』(当時の新聞報道)を図られ、君民一体の麗しい国柄を強化されました。

さらに、貞明皇后と後の昭和天皇を始めとする4皇子たちとの和やかな家庭生活は、国民に近代的家庭の範を示されました。

大正天皇の示された外への『国際協調に基づく積極的平和主義』と内での君民と家族の和は、21世紀の日本の進むべき姿を指し示しています。

一般人の暮らしている世界をより広く見聞する

大正天皇、すなわち嘉仁よしひと皇太子は、ご幼少の頃から病弱で、学習院は中等1年を修了した時点で中退。

その後は赤坂離宮内で国学、漢学、フランス語の個人教授を受けられましたが、一時は重体に陥ったほどの病気で度々中断を余儀なくされ、成績も思わしくありませんでした。

心配をなされた明治天皇は、17歳年上の有栖川宮ありすがわのみや威仁たけひと親王を東宮輔導とうぐうのほどう(皇太子の教育係)として配されました。

1900(明治33)年、皇太子は九条節子さだこ妃(後の貞明皇后)と結婚され、その報告のため伊勢の神宮などを参拝された後に三重、奈良、京都を回られました。

皇太子は、京都帝国大学付属病院では14歳の脊髄病患者と22歳の火傷患者へ病状について質問されました。

明治天皇の場合は、全国行幸をされても一般国民に直接話しかけられることはありませんでしたが、皇太子はたまたま二人の患者の姿を見るに忍びずに声を掛けたのです。

思わぬ出来事に二人の患者は、
「絶えず感涙にむせびた」
と報ぜられています。

同行した有栖川宮は、皇太子が巡啓を元気でこなされたことを見て、東京に帰るとすぐに更なる長期巡啓のプランを練りました。

節子妃との結婚で皇太子の健康が回復しつつあり、巡啓で一般国民の広い世界を見聞することが、皇太子の心身の成長に良いと考えたのです。

巡啓が育てた皇室への親近感

その思惑通り、皇太子は長期の地方巡啓に活き活きと取り組まれました。

しかし、そのスタイルは明治天皇とは大きく異なっていました。

明治天皇の場合は、事前に準備されたコース、スケジュールを厳格に守られましたが、皇太子は随所で予定のコースを変えたり、計画外の場所を訪問されました。

その方が、一般庶民の生活の実情を見聞したり、直接言葉を交わせると考えたからでした。

たとえば、1902(明治35)年の東北6県と栃木県を回る巡啓では、5月26日に新潟物産陳列館で岩の原葡萄ぶどう園製造のブドウ酒を見て、
「うむ、そうか。これが有名なアノ葡萄酒か」
と感嘆され、その晩に葡萄園経営者の川上善兵衛の元に、ご訪問の意思を伝えさせた。

皇太子は29日に葡萄園を訪問されると、
「如何にして醸造するや」
「日本人がおのれ一箇の資力にしてこれだけの事業を成せしは感心の至りなり」
等々と発言されています。

こうした御言動がそのまま新聞に報道され、人々は何を言い出すのか分からない皇太子に初めて接して戸惑いながらも、皇室に対する親近感を抱いていきました。

20世紀日本の最大のシンボル

明治天皇の行幸は、陸軍大演習の視察の他は農村の状況や地方の特産物の天覧が中心でしたが、嘉仁皇太子は学校、物産陳列所、製紙工場、製鉄工場などへの巡啓も多くありました。

これは『教育産業御奨励の御趣旨』から、と報道されました。

明治天皇は主に船、馬車、あるいは駕籠かごで移動したが、嘉仁皇太子は19世紀末最先端の交通機関である汽車を使われました。

人々の歓送迎でも、明治天皇の場合の提灯が、嘉仁皇太子の場合は電灯となりました。

折りしも電灯、電話、鉄道、舗装道路が全国に普及しつつある時期であり、地方では行啓をこうした近代化の絶好の機会と捉えました。

1907(明治40)年5月から6月にかけての山陰地方巡啓は、鳥取、島根両県が明治天皇の全国巡幸にも含まれていなかったため、両県知事の請願に基づいて行われました。

インフラの整備の遅れていた両県は、巡啓を絶好の機会として整備に取り組んだのです。

鉄道では山陰西線(現JR山陰本線)の倉吉―鳥取間が巡啓の前月に開通。

島根県内の鉄道開業は間に合わなかったが、出雲地方での道路の舗装が急ピッチで進められました。

電気は鳥取市内で、皇太子訪問の日に合わせて一斉に点灯されるよう準備された他、電話も主要都市で新たに架設されました。

行啓直前に下見をした内務大臣の原たかし
「今回の行啓に付きては真に千載の一遇として人民の喜ぶたとふるに物なし」
との驚きを日記に記しています。

19世紀末から20世紀初頭は、日本全体でインフラの整備が大車輪で進められた時期でした。

1900年までの十数年間で、鉄道の営業km数は10倍以上増えて6千km達しました。

1890年に東京―横浜間で始まった電話サービスは、1907年までに主要都市間での長距離電話が開通しました。

1905年に新聞の流通は160万部を超え、1907年には義務教育の就学率が100%に近づきました。

アメリカの歴史学者フレデリック・R・ディキンソンは、次のように総括しています。

<実際、嘉仁は1900年から天皇になる1912年までの間、行啓や近代国家形成の中で充実してきた鉄道、新聞、義務教育などの整備を通じて20世紀日本の最大のシンボルとなっていった。>

家庭生活でも20世紀日本の象徴

嘉仁皇太子は、家庭生活でも20世紀日本のシンボルとなりました。

皇太子と節子妃はヨーロッパの君主制にならって、結婚式当時から「同格の夫婦」として振る舞われました。

皇族、高官、各国公使の祝賀も二人並んで受けられました。

また結婚式後の三重、京都、奈良への9日間の行啓は、伊勢神宮への報告が主目的でしたが、節子妃も同行したため、実質的に皇室初めての“新婚旅行”となりました。

お二人は子供にも恵まれた。

4人もの皇子が生まれ、健やかに成長していきました。

皇太子は子煩悩で、皇子たちと鬼ごっこをしたり、食事後に母節子妃のピアノ伴奏で一緒に合唱したりもしました。

巡啓の際には、皇子たちへのお土産を購入される姿も新聞に報道されました。

こうした光景を見た侍医エルヴィン・フォン・ベルツは、
「日本の歴史の上で皇太子としては未曾有のことだが、西洋の意味でいう本当の幸福な家庭生活、すなわち親子一緒の家庭生活を営んでおられる」
と観察しています。

皇太子が皇子たちと遊ぶ家庭生活の光景は、錦絵や写真で広く国民の間にも報道されました。

一般国民の家庭では1890年代では、親子別々に食事をとっていたのが、1910年頃の明治末期には家族団らんの食事風景が普通になっていきました。

嘉仁皇太子は、家庭生活の面でも近代化の象徴となっていたのです。

上下心を合わせての唱和

1912(明治45)年7月30日の明治天皇崩御に伴い、嘉仁皇太子は践祚せんそし、大正と改元されました。

1915(大正4)年11月10日には、即位の大礼が執り行われました。

幕末の混乱期に行われた明治天皇の大礼に比べ、大正天皇の場合ははるかに規模も大きく、広く一般国民も参加するものとなりました。

京都御所で行われた儀式では皇族、政府高官、両院議員、外国公使など2千人余りが参列しています。

当時、首相であった大隈重信が、国民の代表として中心的役割を果たしました。

立憲政治の推進者である大隈に、皇太子は好感を抱き、よくその意見に耳を傾けていました。

一般国民には、進んで民衆の中に入っていく大正天皇と民権を尊重する大隈のコンビが、新しい民主主義の象徴のように見えたことでしょう。

午後3時、君が代斉唱、天皇の大礼勅語朗読の後、3時30分ちょうどに大隈の音頭で、日本全国で万歳三唱が行われました。

京都では、師団と第二艦隊が百一発の礼砲を放ち、全市の電灯が一斉にパッと点き、諸船舶、諸工場の汽笛が一斉に鳴り出し、諸学校の学生、諸会社の執務中の人々が一度に立ち上がって万歳を三唱しました。

こうした光景が全国で同時に繰り広げられました。

大阪毎日新聞は、
<国と言う国の世にも多けれど、かくばかり上下心を合わせての唱和はあらじと思われたり>
と報じています。

歴史学者で京都帝国大学の教授だった三浦周行は、20世紀の初頭においてドイツ、ロシア、オーストラリア、トルコなどの王室帝室が崩壊したのに対して、
「独りわが皇室の日増しに隆昌を加えさせられるるは決して偶然ではあるまい」
とし、その原因として、
「皇室と国民との間がいっそう接近した事」
を挙げています。

全世界の代表者がもれなく集まった

大礼では世界各国の公使が参列したが、これも我が国史上初めてのことでした。

大隈首相は、
「今回の如く全世界の代表者がもれなく集まったと言う事は実に世界の偉観で、我が国では空前のことであるが、東洋でもまた未曾有の盛儀」
と評しています。

大正天皇の登場は、欧米からも歓迎されました。

『ニューヨーク・タイムズ』は1ページ全面を使って大正天皇を紹介し、
<嘉仁は日本の近代的精神に完璧に合致し、いろいろな意味においても父宮には達しなかったヨーロッパの風習に染められている>
と評し、その例としてヨーロッパ式の東宮御所、洋装好み、一夫一婦制、節子皇后のテニス好きなどを挙げています。

スペイン公使が来日した際には、会食の席で皇太子が長時間フランス語で会話し、公使や他の列国の使臣を感激させたと伝えられています。

明治天皇の御大葬で来日したアメリカの国務長官を歓迎した際も、
<陛下はアメリカの長老と親しく話し、両国間の親密な関係に触れ、アメリカについて深い知識を示した>
と、『ウォールストリート・ジャーナル』は報じました。

欧米からの賓客と親しく交際する日本の元首というイメージは、第一次大戦後、世界の五大国の一つとなった20世紀日本に相応しいものでした。

皇室史上初めて、裕仁皇太子を欧州歴訪に送り出して、欧州各国から大歓迎を受けたことも、これに華を添えました。

大正天皇の象徴された『平和大国日本』のビジョン

1914(大正3)年~1918(大正7)年まで続いた第一次大戦は900万人もの犠牲者を出しました。

その反省から平和への希求が強まり、国際連盟が創設され軍縮が進められました。

その国際的リーダーシップをとった五大国の一つが日本でした。

原敬首相はパリ講和会議において、
「帝国は五大国の一として世界平和の回復に向かって努力するを得たり。ここにおいて帝国の位置一層重さを加ふると共に、世界に対する帝国の責任またますます重大なるを致せり」
と高らかに宣言しました。

国際連盟の発足と同時に、大正天皇は『世界大戦に就いて平和克復の大詔』を発せられました。
「平和全く復するに至りたるは、朕のはなはよろこぶ所なり」
と平和の回復を喜ばれつつ、平和協定の成立と国際連盟の創設を
「朕が中心じつ欣幸きんこうとする所なると共に、又、今後國家負荷の重大なるを感じざるを得ない」
と、日本の世界平和に対する責務の重さを説かれました。

その上で『萬國の公是』に従い、『聯盟平和の實』を挙げることを国民に求めました。

F・R・ディキンソンはこの大詔について次のように述べています。

<五箇条のご誓文と同じく、平和克復の大詔は国民のあらゆる面に影響する根本的な改革の公式な声明文として読むべきである。そして、その最も根本には五箇条の御誓文と同様、世界における日本国の位置について劇的に新しいビジョンがあった。>

明治天皇の『五箇条のご誓文』では、
「天地の公道に基づくべし」
「知識を世界に求め」
と欧米先進国に伍していく日本国の在り方を希求しましたが、大正天皇の『平和克復の大詔』では、世界平和を担う五大国の一員として日本国の責務を謳っています。

この『平和大国日本』こそ“劇的に新しいビジョン”でした。

日本が国際政治・外交において、中心的な地位を占めるようになれたのは、武力や経済力だけではありません。

世界平和を希求する国際的リーダーシップを発揮した国であったからこそでした。

そして、その象徴が、切実に平和を希求された大正天皇でした。

大正時代の『平和大国日本』のビジョンと、それを象徴された大正天皇の事績は大東亜戦争後、戦前の全てを悪とする自虐史観によって覆い隠されてしまいました。

しかし、現代の日本が『国際協調に基づく積極的平和主義』を求めるのであれば、既にそのビジョンは大正日本によって示されているのです。

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