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2022.6.4 「日本」という国号はいつ生まれたか?その意味とは?

白村江の戦いの敗北によって、日本は朝鮮半島の支配権を奪われ、古来より続いていた半島との接合性を失います。

しかし、それと共に、日本列島の領域枠の意識が強く共有されて、国や民族のかたちが明確になり、日本という国家意識の原形が誕生するのです。

日本の領域枠を守るため、国防軍が創設されます。

唐の来襲の危機に備え、北九州一帯に国防軍が配置されます。

万葉集にも収められている『防人歌さきもりのうた』が無数に作られたのは、この時期です。

日本の国家意識の発揚と共に日本の国号、つまり国の呼び名についても定まりました。

古代、中国は日本のことを『倭』と呼んでいました。

後漢王朝の時代に編纂された字典『説文解字』によると、この『倭』には‟従順”という意味があり、‟付き従う者”という意味、さらに、その意味を強めれば、‟隷属者”という意味もありました。

当然、日本側は、この『倭』という文字を嫌い、『倭』の代わりに発音が同じ『和』を使うようになり、さらに、『大』を付け加え、『大和』とし『ヤマト』の当て字にしたとされます。

そもそも、『ヤマト』が何を意味しているかは諸説あり、‟山のふもと”を意味するという説、山の神が宿る‟山門”を意味するなどの説があります。

江戸時代の国学者の本居宣長は、天智天皇の時代に『日本』の国号が使われ始めていたと述べています。

この頃、『日本』と書いて『ひのもと』と読んでいたとされます。

『ひのもと』は、太陽が昇るところという意味です。

607年の第二回遣隋使で、小野妹子は隋の煬帝に、
<日出處天子致書日沒處天子無恙云云(日出ずる処の天子、日没する処の天子に書を致す。恙無しや、云々)>
で始まる有名な国書を差し出しています。

日本は、隋王朝のような大国を相手に決して怯まず、自らを‟日出ずる処”とし、また『天子』を名乗りました。

中国の皇帝に対し『天子』を名乗るということは、対等の立場であることを主張するものに他ならず、煬帝は‟日出處”を‟日沒處”の記述ではなく、日本が『天子』を名乗ったことに対して、激怒したことはよく知られています。

日本は元々、‟日出ずる処”の国という意識を強く持っており、これをそのまま国号にして、『日本』としたのです。

10世紀、五代十国時代に編纂された中国の史書『旧唐書』には、『日本』という国号について、
<日本国は倭国の別種なり。 その国日辺にあるを以て、故に日本を以て名とす。或いはいう、倭国自らその名の雅ならざるをにくみ、改めて日本となす>
という記述が見られます。

<その国日辺にあるを以て>の‟日辺”いうのは、日の出るあたりという意味です。

日本は古来より、‟日出ずる処”の国という意味の国号に、国家と民族の誇りを抱いていました。

我々は日本の国号の歴史的意味を振り返る時、遠い祖先たちの溢れる気概を感ぜずにはおれないのです。

日本は白村江の戦いで敗北し、朝鮮半島への支配権を失ったことは、短期的には損失であったかもしれませんが、しかし長期的には、朝鮮半島との関係が切れたことを契機に、日本という単一民族の国家が誕生し、そのことが全ての日本人に明確に意識されるようなり、『日本』という国号の誕生と共に、国家の新たな歩みと指針を得ることになったのです。

日本は、朝鮮半島や中国の煩雑な抗争に巻き込まれるリスクから解放され、内政を充実させることもできました。

彼らとの関係を切ることが、日本を日本たらしめたのです。

このように、朝鮮半島や中国への非関与は、言わば日本の初源的な国是のようなものであり、先人の知恵でした。

しかし、16世紀末、伴天連バテレンらと共謀したスペイン、ポルトガルらの植民地支配から日本を守るため、豊臣秀吉は敢えてこの国是を破り、明国への進攻の足掛かりとして半島へ進出して失敗し、自らの政権を崩壊させてしまう契機となります。

そして、最終的に、この国是を完全に放棄したのは攘夷(開国)に国を傾けた明治政府でした。

日清戦争に始まり、北方の大国ロシアの脅威を食い止めるべく大韓帝国併合まで行い、これを境に20世紀全般にわたり、日本は朝鮮と深く関わり過ぎた結果、今日までろくなことがなかったのです。

我々は、朝鮮半島や中国への非関与という日本国初源の国是の意味と先人の知恵について、もう一度よく考えなければならないでしょう。

最後までお読み頂きまして、有り難うございました。

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