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2022.9.1 江戸時代=封建社会はウソだった?

今回は、最新の研究で分かってきた江戸時代の新説について、書き綴っていこうと思います。

江戸時代というと、『水戸黄門』などのドラマでは、貧しい農民が悪代官に虐げられていたようなシーンがよく描かれていますが、実は、当時の民たちは、決してそのような弱い立場ではなく、むしろ高度な生活を営んでいたことが分かってきました。

一体どういうことなのか?

江戸時代の民は、どのような暮らしをしていたのか?

最新の研究で分かってきた本題に入る前に、皆さんは江戸時代というと何を思い浮かべますか?

『封建社会』
『士農工商』

そんなところではないでしょうか。

<身分が定まっていて、大名、代官、大地主たちが町民や農民を苦しめ、それに耐えかねて、人々はしばしば一揆を起こした>

実際、こんな風に書かれている歴史書もたくさんあります。

しかし、最近は研究が進み、人々は意外に自由で、
“身分に縛られて経済的に苦しめられるような立場ではなかった”
という江戸時代の姿が明らかになってきています。

近代以前の封建的な暗黒の時代。

そういう観念が、江戸時代の暗いイメージを作り上げているのでしょう。

歴史を観念で見てはなりません。
イデオロギーで思い込んではなりません。

将軍や大名は、決して大土地所有者ではないのです。

領内から徴税して、それでもって行政に当たる、そういう立場でした。

土地を所有していたのは町人や農民でした。

そして、その土地を自由に売買することができました。

土地を売ってその代金を資金にし、例えば酒造や織物の仕事をすることもできました。

人々は農奴のように身分を固定されていたわけではなく、資本家として活動することもできたのです。

少数ながら、土地をもたない小作人も居ないわけではありませんでした。

しかし、彼らは収穫の半分を取得する権利を持っていたのです。

そして、努力して収穫量を上げれば、小作人を辞めることができました。

テレビドラマなどに登場する代官は、大体が人々を苦しめる悪代官と相場が決まっています。

まあ、そういう代官が全く居なかったとは言えないでしょう。

しかし、それは本来の代官の姿ではありません。

農事改良を指導したり、村民教化に努めたりして生産を上げ、徴税を滞りなく行う地方公務員といったところが、代官の役割だったのです。

幕府の政治も将軍の独裁などではなく、評定(会議)によって行われました。

『百姓は大御宝』
という農民重視の思想が根底にあって、様々な施策がとられました。

農民は副業を営むことができ、それは課税されませんでした。

だから、幕末の寛永年間の頃には、農民が納める年貢率は全収入の1割、多くて3割になっていました。

その年貢は主に、人々の暮らしを良くするための公共施設の基盤整備に使われました。

大河川の氾濫に備えた堤防の構築や物資輸送のための道路整備や港湾施設の拡充などです。

武士の特権に“斬り捨て御免“というのがありました。

しかし、これも中期以降は不可能になります。

武士に非があれば、奉行所が処分しました。

百姓一揆が起こっても、それが一方的に抑えられ、処断されるようなことはありませんでした。

事情や経緯が詳しく調べられ、原因を作った責任者は罷免や没収などの改易に処せられました。

一揆を起こした側も、首謀者以外は無罪放免になるのがほとんどでした。

士農工商は当初、社会安定のために設けられました。

しかし、実際は流動化していきました。

人々はそれぞれに、様々な生き方をしているのですから、そうなっていくのは当然です。

例えば、石田梅岩は農民の出です。

しかし彼は、京の商人の家に奉公に行きました。

そこで勉強し、商人や農民が武士に劣るものでないことを知って、上下関係を重んじる朱子学を中心に仏教や老荘を取り入れ、それぞれに社会的職分があって、その役割には隔てがないことを説き、心学の祖といわれるようになりました。

長岡藩(新潟県)では藩士が支配を商人に委ね、農村復興に効果を上げました。

農民でも名主になり、帯刀を認められることがありましたし、姓を公称することもできました。

武士である御家人の子が町家に養子に入ったり、武家と富農が婚姻関係を結ぶこともよくありました。

庶民がお金で武士の身分を買うこともありました。

そして学問、武芸、技術に秀でていれば、十分に取り立てられることもあったのです。

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