文科の「国語」とIBの「日本語」の違い

1年ほど前に国語総合の課題で書いたレポートです。

課題:「国語」(文部科学省カリキュラム)で学ぶことと、「日本語」(IBコース)で学ぶことの違い述べなさい。

文部科学省カリキュラム(以下文科)の「国語」で学ぶことと、IBコースカリキュラム(以下IB)の「日本語」で学ぶことの違いを述べるうえでキーワードになるのは「アイデンティティー」だと考える。平成22年の文部科学省の高等学校学習指導要領解説の国語編には「…国語は(中略)我が国の文化の基盤をなすものである。(中略)文化の継承と創造、日本人としてのアイデンティティーの確立にとっても欠くことができない。」とある。

一方で、IBの指導の手引き(2021)には「概念理解」という項目として「アイデンティティー」が挙げられており、「(中略)テクストを読み、解釈しているときに、そこに表現される観点は作者のアイデンティティーをある程度反映するものであると仮定するのが普通です。(中略)また逆に、テクストを読むときの読者のアイデンティティーの関わり方も、読解という行為を分析するにあたって同じくらいの重要性をもちます。」と述べられている。

これらを比較・対比すると、文科では「日本人としての」という文が特徴的である。これは被学習者が日本人であるという前提のもと成り立っている。また、文科では「日本語を話す」という言語をもって「日本人」と定義づけているということが考えられる。

IBの指導の手引きでは「著者の/読者のアイデンティティー」という言葉が特徴的である。この文から、IBでは「自分は何人である」などというという人種はアイデンティティーの一部にすぎず、それらが個人によって違うものであることを前提としていると読み取ることができる。これは、「多くの資質、および国際的な視野を持った生徒を育む」という「IB学習者像」の目標が反映されている。またIBのプログラム自体が世界中で学ばれており、学習者の国籍や人種、話す言語や母国で話されている言語が異なっているということが当たり前だとされているからという理由もあるのではないかと考える。

学習指導要領を学生が読む機会は少ないため、これらの違いが直接影響しているとは限らない。だが、「国語」を「(日本語を理解する)日本人」が勉強するものと学習指導要領の段階で限定してしまうことで、教材選びの際にこの前提のもと採択されることになり、無意識のうちにこの考え方が定着してしまう。

私はアイデンティティーとは自分の「誇り」であると考える。自分の「誇り」すなわちオリジナリティーは他を知ったときに自覚することができる。「日本人である」ということも含めて、アイデンティティーの確立には広い視野を持つことが大切である。その機会を失わないためにも、文科の指導要領で「日本人としてのアイデンティティー」と限定するべきではないと考える。

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