エピローグ(1172字)

NHKのドキュメンタリー番組「新横綱・稀勢の里 激闘15日間の記録」 を見た。

稀勢の里、本人がこの3月場所を振り返っていた。

改めて稀勢の里の生真面目な人柄がよくわかる30分である。
客観的な側面でしか人は見ることができない。
そうした時に、周りは勝手に自分たちの思うような土俵上でのドラマを読み取る。
正しいかどうかは二の次に、「こう見ればもっと相撲が面白くなる」というような自己満足にも近い見方がほとんどである。

稀勢の里のコメントも全部が全部本心・率直な気持ちを言葉にしているかどうかは関係ない。
その言葉を残すことが重要なのだ。それが真実となる。

「ああいう相撲にしかならなかったのは自分でも悔しい」
その言葉を残してくれただけでも、私は大満足である。

正直に言って最後の3日間の本割での相撲は横綱である以上、批判を受けかねない相撲内容である。
怪我をしていることで、贔屓目に見られたことによってその批判が少ないだけなのだ。

『怪我の功名=失敗や過失、あるいは何気なくしたことなどが、偶然によい結果をもたらすことのたとえ。』
もし今回、日馬富士戦で左肩の怪我をしなかったら、稀勢の里は優勝できただろうか?
難しい問題だ。
翌日対戦した鶴竜とは本来なら、稀勢の里の方が過去の対戦から見ても分がいい(31勝17敗)。もし怪我をしていなければ、すんなり勝ったかもしれない。いや、勝っていたと私は思う。

「たら、れば」の話をしても、答えは出ないので勝手に想像するしかないが、怪我をしなければ恐らく稀勢の里はすんなり優勝できただろう。

13日目に一時は動けなくなるほどの怪我をしたことで、伝説とも称される場所になった。

これこそが「目に見えない力」であると私は思う。

千秋楽の相撲は横綱 稀勢の里として出なく、一力士、土俵上で戦う一人の漢として戦った結果なのだ。
「それが僕の使命、力士としての」
と稀勢の里は締めくくった。

もし、横綱として堂々と取っていたなら負けていたかもしれない。

前日に照ノ富士が琴奨菊に勝った相撲も結局はそういうことなのだ。
土俵上では誰も助けてくれない、己一人の力でなんとかするしかない。
周りがとやかく言おうが、勝たなければ前へ進むことができないのだ。


しかし「周りの声」を無視することは、大相撲界の衰退に繋がると思う。
我々ファンの存在だ。
「横綱には横綱らしくあってほしい!」という声もあれば
「強ければ何をしようと横綱だ!」という声もあるだろう。
常にそれらの声を背に受けながら、己の目指す「横綱像」を作り上げていかなければならないのが横綱である。
全ての横綱にはあらゆる力士の見本と呼ばれる姿を見せ続けてほしい。

特に日本出身横綱である稀勢の里への期待は計り知れない。

それでも飄々と己の相撲道に邁進していくであろう稀勢の里の姿が思い浮かぶ私は、にやつきが止まらない。。。

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