文章の心

文章の心と感情

よく、ネットの世界では「誰にも見られてなければ、存在していないと同じ」という言葉がでてきます。

ホームページ製作業者が検索上位施策の営業的に言う時もあれば、ネットのコンテンツの本質的な話でも出てくることもあります。

本当にそうなんでしょうか。それは本当に存在していないのと同じなのでしょうか。

そんなわけはないんです。

投稿した時点で、すでにこの地球上にその文章、動画等、自らが作り出したものが存在して、ネットには存在しています。

「誰にも見られてなければ、存在していないと同じ」

人がなにかをする時、それは、すべて意味が無い状態でなにかをする、ということはほとんどないと思います。それは意識的、そうでなくても。

なにかしら心が動いているから、少なくとも、文章を書いて、投稿のボタンを押した、知人友人に読んでもらいたいという訳でもなく、でも誰かに読んでもらいたい。意識する、していない関係なく。

だから、投稿したその瞬間に、決して目の前でなくても、明らかになにかしらに変化を起こすものがあるものができるはず。

なぜなら、ただ単にキーボードで文字を書いて、投稿しているのではなく、想って書いた文章というものには心が住んでいて、それはその心が自分の奥に置いてあるものを探し、ひっぱり出し、巡り巡る感情とともに文章に魂を載せて、そして、ネットの世界に投稿という形で送り出されたと思っているからです。

文章というもの、動画も同じですが、ただの文字列ではないと思います。
文章や作品は良し悪しではなく、ただ深さというものを持ち、その文章というものは、書かれる前から作者の心の中に存在しうるものが、作者が書き下ろしたもの。それは、「書かれようと心の中に存在していたもの」と思っています。

不思議なことに、同じような意味を持つ文章は、息を合わせたかのように同じタイミングで世に出てくることが多いとよく感じます。

世の中の人の心の中に宿っている同じ想いが、一斉に別の作者から文章となって世の中に出てくることは最近の色々なことでもわかります。

書いた人それぞれの文章自体は「誰にも見られてない」かもしれない。だけど、書いたことの内容は決して読まれていないことは無い、伝わっていないことは無いといつも思います。

なぜなら、人は意識の下が繋がっている、からだと思います。


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