見出し画像

神「疲れたので仏になります」!?

※古い時代のことゆえ、諸説あることを冒頭に記しておく。
※参考文献:義江彰夫『神仏習合』1996年 岩波文庫、
佐藤弘夫『起請文の精神史』2006年 講談社選書メチエ

神は仏になりたかった?

新年の初詣。そういえば、神社に行ったり寺院に行くこともある。神社のそばにお寺があったり。その辺の区分ってどうなっているのだろう?

8世紀から9世紀にかけて、なんと日本各地で神様が「神であることが苦しいので、仏教に帰依きえしてその苦しみから逃れたい」と言い始めたらしい。実際には神が人(巫女みこなど)に降りてきて、その口から発せられた「託宣」という体裁をとっている。
これは一体どういうことだろうか。

このような日本土着の神祇しんぎ信仰(神道)と仏教信仰(日本仏教)が合わさる現象を、神仏習合という。日本の神々は、人々を救うために、仏が化身した姿だというのだ。

神道と、日本仏教のはじまり

もともと日本には土着の信仰として、原始神道(古神道)があった。
そこに仏教が伝来。正式な伝来については552年と538年の2説がある(年代表記の違いだけで実際には同じ年との説もある)。
仏教も初めのうちは新しく加わった神のようにして浸透していった。
7世紀以降、仏教と神道は明確に区別されていく。
8世紀以降、各地で神と仏の接近が見られる(神仏習合)。

国として、仏教採用の流れ

まず豪族の2大勢力、物部氏(日本古来の神道支持)と蘇我氏(海外に目を向けた仏教支持)の争いがあった。崇仏・廃仏論争。
その後、蘇我氏が優勢となり、物部氏は没落。
次に、聖徳太子が作った十七条憲法の第2条に「篤く(仏教の)三宝を敬え。それは仏、法、僧である。」と記された。

【備考】歴史の流れ

  • 天皇は物部氏と蘇我氏の混血(勢力争いのバランスとして)

  • 574年 聖徳太子(厩戸皇子、本名は不明)誕生

  • 587年 物部氏の没落

  • 593年 推古天皇即位 傀儡かいらい政権だが聖徳太子がバックアップ その後、徐々に蘇我氏と天皇家という対立構造へ

  • 600年 遣隋使を派遣(618年までのあいだに5回派遣)

  • 604年 聖徳太子が十七条憲法を作る

  • 643年 山背大兄王やましろのおおえのおう(聖徳太子の子)が蘇我氏に襲われて自害

  • 645年 乙巳いっしの変 蘇我本家が滅ぼされ天皇家の時代へ

  • 大化の改新 大化年間(645〜 650年)の改革から大宝元年(701年)の大宝律令の完成まで。遣唐使(630〜907年)の情報をもとに、唐の官僚制と儒教、仏教を積極的に受容し、国の政治のあり方を新しく構築した。

なぜ仏教なのか?

中国で隆盛をほこったずい、そのあとの唐。その繁栄を参考にするべく、日本からさかんに使者(遣隋使、遣唐使)が送られた。治国ちこくすべを学ぼうとするプロセスで、仏教や儒教の存在が浮き上がってきた。当時の日本の朝廷は、国を治めるために仏教も活用しようと考えたのだ。

人として、仏教への流れ

庶民の方はどうだったのか。
この世の神様、あの世の仏様、という棲み分けもあったらしい。この世の災厄(飢饉、天災、病気)への恐怖、それから逃れるためには神様のご加護が必要。同様に死後の世界への恐怖があり、極楽浄土への願いをかなえるためには仏様の力が必要。その考えは、民衆はもとより、私腹を肥やしてきた地方の有力者(豪族)、ひいては神社の神主とて同じだったのだろう。
もう一つ恐れられていたもの、怨霊である。今でこそオカルト扱いされるが、当時は身近な恐怖の対象であった。そこで成仏という言葉が大事なキーワードとなる。朝廷さえ怨霊調伏ちょうぶくには多大なエネルギーを注いでいた。単なる恐怖からだけではない。もし権力争いで敗れた皇族の死霊が出没し人々を脅かすようなことがあれば、現政権への批判にもつながる。それを阻止しなければならなかったのだ。
諸々の理由から、彼らの心は神祇しんぎを離れ仏教へと傾いていく。もちろん先述の朝廷の動きにも影響されたと思われる。しかし突然、明日から仏教に変えます、ともいうわけにもいかない。
そこで、神と仏を都合よくくっつけることはできないか?と考えたわけだ。

神仏習合のための「奇策」

本来、日本の古い神々の姿は不可視で、神がおわす場所としての太陽や山、古木、大岩などが信仰の対象だった。やがて精神的なものである神のために神殿という場を設けたり、神の像を作るという「実体化」が行われた。神殿を含む大がかりなやしろが建立され、都市を守護する役目(鎮護国家)を持たされる。すでに各地にあったこの守護システムを、さらに仏教と近接させることで強化し、朝廷がその総体を治国のいしずえとしていく。
次に、そのためにあみ出された「奇策」を見ていこう。

神仏習合:日本土着の神祇信仰(神道)と仏教信仰(日本の仏教)がそれぞれの思惑おもわくのもと、一つの信仰として再構成されること。教理や信仰の構造が保たれたままで結合するという、世界でも類を見ない現象。

本地垂迹ほんじすいじゃく本体(本地)としての仏や菩薩が人々を救済する目的で、仮に神や人間などの姿となって現われること。そのような神は権現ごんげん (仮に現れた、の意) と呼ばれるようになった。
一方で、神道側からは「神の方が上」という反本地垂迹説も生まれている。

神話の書き換え:たとえば熱田神宮で作られた『神祇技官』という書物。日本書紀・古事記の内容を大幅に改訂して、独自の神話にしたてあげた。驚くべきその内容は、イザナギ・イザナミが作った国に名をつけようとして見ていると、そこに大日如来が地結の印を結んで座っていたというもの。国造り神話の初めから、堂々と仏が割りこんでいる。

神を仏化する「仕掛け人」たち:
全国を行脚していた仏教の遊行ゆぎょう僧など。彼らが神社に布教という形でアプローチすることもあれば、神社側からの要請で僧が出向くこともあったという。神と仏の仲介役である。

神宮寺(神の宮+寺=神宮寺)の建立こんりゅう8世紀から各地で建立された。神社の一隅または隣接している。仏教に帰依して仏になろうと望む神々の願いを果たすべく、建てられた寺である。
神宮寺が建ったあとも、神社・寺院ともにそれまで通りの影響力を持ちつつも、お互いを尊重するような状況となった。また律令国家にとってみれば、神宮寺を認め、お墨付きを与えることで、地方の権力者たちを束ねることができた。

神さまと仏さまの上下関係

これに関しては佐藤弘夫『起請文の精神史』が詳しい。神社寺院どうしの論争や朝廷内部の話ではなく、幅広い人々の間で作成された「起請文きしょうもん(誓いを立てるときに、神や仏に誓って〇〇しません、と記した紙)」から、神仏の順位を探っている。西洋なら「神に誓って」となるところを、日本では、梵天・帝釈天を筆頭に、神仏、さらには道教の神々、閻魔大王や霊、モノノケに至るまで、多種多様な高位存在・超越者を担ぎ出して勧請していて興味深い。
そこには「変遷する雑種文化」というキーワードも浮かび上がる。

まとめ/人が生みだした、人を護るもの

歴史を振り返ってみると、権力者、民衆、仏僧、神官、それぞれがアメーバのように合流し入り乱れながら一つの大きな潮流を作り上げた感がある。
神も仏も、人間が自分たちで自分たちを護る存在を都合よく作り上げた、と言えるかもしれない。
もともと人は支え合いながら生きるもの、それでも人智を超えた未知への恐怖や不安は消せない。もっと高い場所から恵みや救いを与えてくれる存在があれは安心だ。さらに信仰には、バラバラで身勝手な欲深い人間たちを、穏やかな共同体へとまとめるという機能もある。
しかし昨今の情報化社会ではそのご利益りやくも見失われがちで、宗教のあり方も変化していくと思われる。今や我々は個人の哲学を持ち、自分だけの神様を立てることさえ可能だ。その上で全体とどう関わっていくか、新たな試行錯誤が求められている。

༄ サービスへのお支払いはこちらからお願いします