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まして未来のことなど僕にわかるはずもない

昼前に友達から電話がかってきた。
11:45。私はまだちゃんと目覚めていないままソファの上でうとうとしていた。電話をかけてきた相手はロサンゼルスにいる。時差が16時間あり、地球の周り方でいうとこちらのほうが先に時間が進んでいる。

16時間前の友人は寝る前で、寝る支度をしながら最近のことを話し、私は逆に会話によって目を覚ましていく。こちらもなんとなく近況を話しながら部屋の掃除をしてみたり放置していた洗い物と対峙したり、人がいれば苦でないことを少しずつ行った。

そうやって午前中が終わり(ほとんど寝ていたわけだが)、少し仕事をしてからかんたんな昼食をつくる。鶏胸肉に片栗粉をまぶして焼いたのと、酢キャベツ、いつかの残りのかしわおにぎり。かしわ、を、鶏肉と言うのは九州だけなんだと誰かが言っていた。私が住んでいるのは福岡なのだが、そういうご当地ネタで盛り上がるタイプの会話、あんまり好きくなかったりする。だって面倒くさいじゃないです?

酢キャベツを食べることに最近はまっていることを別の友人に話したとき、あれって本当に一瞬で半玉なくなるよねという盛り上がりを見せた。ご当地ネタは面倒くさいのに、酢キャベツで半玉、は盛り上がったりする。だって最近キャベツ思いのほか高くないです?酢キャベツ破産してまうよ、などという会話をしたのは、改装されたメリーゴーラウンドが回る大濠公園のミスタードーナッツだったな。

食事を済ませ、片付けをして、薦められた呪術廻戦のアニメをプライムビデオで観る。先日日本に来ていた韓国人の俳優さんからもらったオレンジとにんじんのケーキを食べる。ついでに、別の人から韓国土産のハニーアーモンドをもらっていたことを思い出し、朝入れていたコーヒーの残りとともにそれも食べる。韓国おやつたち、おいしい。
韓国や台湾の人たちと、去年から関わる機会をもらって、その経験は自分にとって結構大きなことだったと思うんだけど、まだどちらの国にも乗り継ぎのために空港に寄ったことを除いて、行ったことがないので、余裕ができたらきっと遊びに行きたいなと思っている。

そうしていたら昼が過ぎていく。
まだ脚本の直しができていないので、少し焦っている。焦りながらもブラウザで開いたのはDuolingoで、いつになるかわからないけれどおそらくそのうち遊びに行くだろうロサンゼルス旅行の準備をし始めてしまう。そうしたら昼が過ぎていく。

洗濯物を畳む。買い物へ行く。1,250円分の食料品、切れていたキッチンペーパーなどを買う。一週間くらい、を生きる買い物。
1,000円前後で一週間まかなえるわけではないけど、なんとなく家にあるストックの食材と合わせて食べていたら買い物はそんなに必要ないことに気づき始めている。組み合わせて計画を立てて料理をするだけでいい。それは結構楽しいことだったりする。

外を歩いていると少し秋の涼しさを感じて、時は平等に過ぎていくよなと思う。こういう時期から春にかけて、学生の頃はよく南福岡駅のミスタードーナッツで脚本を書いていて、そこにはときどき柳田さんもいて、おかわり自由のホットコーヒーと、エンゼルフレンチとオールドファッションを食べながら話をしていた気がする。それはもう10年も前のことだ。あのころは苦しいことばかりで、東京に高速バスを使って就活に行った日の夕方、山手線のホームでかかってきた電話の内容に反射で身体が線路へ落ちようとしたりしていて、そこから数年は時折かなり良くなかった。東京から帰ってきてすぐ、そのミスドで夕方まで鬱々としたテキストを書いていたらガラスの向こうの目の前で30代くらいの男が火がついたままのタバコを捨てたのを見た。「たったそれだけのこと」が許せなくなり、ほとんど反射で店を出て火のついたままのそれを拾って男を追いかけてしまって、周りの人におかしな目で見られた。

おかしな目で見られた、と思ったのは、大学からやってきたバスの乗客たちの目線を勝手にそう解釈した被害妄想によるものも大きく、そんな惨めな気持ちになっている自分に対し、元気でにぎやかでまぶしいほどに正常で「私の身に起きたことなど何一つ理解できないであろう」バスで大量輸送されてきた乗客の女子学生たちが駅前で放たれる。
事実わたしはおかしかったし、今も正常だという自信はない。

そういう記憶と紐づいていたから、しばらくは南福岡駅に行けなくなったりもしたが、でもあの頃私にとってあのミスタードーナッツは居場所だったんだと思う。
今ふたたびあの席について外を見ても同じことは考えないし、衝動でなにかに取り憑かれたように動いたりすることも多分ない。読みかけの本が終わるのが嫌で最後の章を残して急に読むのを止めたり、突然ファイナルファンタジーXのセーブデータを掘り返して雷平原のミニゲームをし始めたり、気づけば深夜にジェクトのとこ(ラスボス)まで行ってしまうような小さな奇行を繰り返しているくらいで。

そして今日は最終章で読むのをやめていた『黄色い家』(著:川上未映子)を読み終わった。
誰が言っていたのか忘れたけど、小説は書き始めたときと書き終わるまでの間に時間を要し、はじめと終わりの間に小説家も読み手も成長しているということを読んだ記憶がある。
また時に、別の誰かが「読む側」は提供される側、インプット側で、アウトプット側である「書く側」しか得をしない仕組みなのだと言っていたけど、私はそれは違うのではないかと思う。というか、そこで表現されている「得」ばかりを求めて生きていると、けっこう辛いものだよと。それは10年くらい前の自分に会えるなら言い聞かせたい。得をするために書くなと。
読まないと書けないしね。

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