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noteの綴り方

道端歩いていて、ガキンチョがコケて膝を擦り剥き、うずくまっていたら「痛そうだなぁ」と思うが、自分は痛くない。神経回路がガキンチョと自分では違うからね。
会社で同僚が上司に説教されていると「辛そうだなぁ」と思うが、自分が辛いわけではない。
意識というものは独立しているから、僕らは他人の痛みや苦しみを感じることはできない。ただ想像するのみだ。もちろん喜びなどの感情もね。

「共感」や「共有」というものが持て囃されている昨今だけど、情報はシェアできても、感覚や感情は、それぞれが頭の中で、勝手に抱くのみだ。無意識というものが、個人間で繋がっているという説もあるけど、基本的には

精神は孤独でしかない

そして、もちろん本来的な人間性や、それまで積んだ経験、置かれている環境などの違いで、同じ情報でも、受け止め方は千差万別。同じ人ですらタイミングによって悲劇が喜劇になったりもする。だから「相手の身になって考えてみる」というのは、かなり過酷な行為で、本気でこれに取り組めば、気が狂いかねないから、なんとなくくらいで十分だと思う。

問題なのは、この事実をうっかり忘れてしまうことだ。他人の感覚や感情を「分かっています」と過信したり「分からなきゃおかしい」などと、自分の想像でしかないものがあたかも実体があることのように錯覚するとヤバイ。僕がnoteを書く時に最も気を付けているのがこの点だ。

一方で、心というものは一個では成り立たないという事実もある。

他がなければ個もない。

個々の精神は独立しているが、それは他の干渉を受けながら形を保っているのであり、人は自分の外部に存在する様々な事物を比較しながら自分の座標軸を定めている。イケメンと自分が思うならば、それは他者あってのイケメンだ。
人間は、他者の様々な行為やそれにまつわる感想などを知ることで「あ〜自分はこういうなんだ」と安心し、そういう過程を経て自己が形成される。

なんだかややこしい話になってきた。

要はさ、第一に「人間には違いが必要だ」だから、いかなる表現にもニーズがある。
第二に「他人の頭の中が分からない」ことに配慮しながら、丁寧に表現していく。

僕が書くにあたって、心掛けているのはこの二つだ。だからどうという話しじゃなくて、最近暇つぶしでnoteに接する時間が多くなって、そんな風に考えているってだけね。

そして、これは、ここまで書いた事と矛盾するが、僕が思う良い表現とは、情報の量や質、あるいは見せ方ではなくて、どれだけ真剣に表現に臨んだかだとも思っている。

何を書いたか、どう書いたか、ではなく、どれだけ思いを込めて書いたか。

そこに価値があると思っている。なんだか面白くも楽しくもない文章になってしまったけど、たまにはいいじゃない。

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