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R18エッセイ:逃げていいんすよ


毒親(どくおや、英: toxic parents)は、毒と比喩されるような悪影響を子供に及ぼす親、子どもが厄介と感じるような親を指す俗的概念である。

Wikipedia


子どもが親を厄介と感じるまでにどれくらいの歳月が必要なのかは不明ですが、毒親かどうかは子どもの実感によるらしい。客観的な基準はない、子である「私」の主観によるということであれば、潜在的な毒親は少なくない、と想像します。世間を憚るのが日本人です。
親の醜悪な言動を目にしても、屈辱的な扱いを受けても子は「親だから」と「毒」を否認する。幼少時の絶対的な力関係のもとでは致しかたありませんが、成長するにつれ力関係は相対的なものとなり、「毒」は鬱積していき、ある日顕在化する。
あいつら、マジムリ。
とは皆が皆そうではないかも知れませんが、「親だから」といって「毒」が中和されるわけではありませんし、分別がついてくると子にとって親とは畢竟他者であるとわかります。他者であり、他者がある故に「私」があるのだと。

「私」とは他者との関係性のうちにしかあり得ない、という観点から申し上げますが、逃げていいんすよ。いくらでも逃げていいんです。逃げても独りにはなりません。どうせまた他者に出会いますから。他者から逃げおおせたという奴を私は知りません。
逃げて、波長の合う、共感できる仲間を探せばいいんです。とヨシタケシンスケ氏が言っておりまして、受け売りかよと言われればそうなのですが、実感も混じっております。
「あなたのため」などとのたまう毒親とは離れて、共感できる人を探せばいい。「独りよがりな共感」という名の毒を押しつけてくる他者は、親であれ、誰であれ絶っていい。
なぜなら、「私」とは本来他者と絶たれているものだから。絶たれているが故に、共感できる他者が必要なのです。
世間体や、ライフステージ、毒親でも「親だから」という思いなどもあり、我慢されている方もいらっしゃるでしょう。お前のいうことなんか共感できるかい、という方にこそ、逃げていい、絶っていいんだとお伝えしたい。
絶っていいにもかかわらず絶たない、立派です。でもそんなあなたに、立派な方ですねなどと申しあげるのもおこがましい。
以上、はや二年、絶讃逃亡中のサナキダでした。
本稿が万が一にも、誰かのお役に立てれば幸いです。