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メソポタミアの洪水譚と旧約聖書


メソポタミアの大洪水伝説に関する代表的な粘土版は、最古のものは①前1600年頃のシュメール語の『シュメール語洪水物語』、次いで②前1635年頃のアッカド語の『アトラ・ハシース叙事詩』、次いで③前1300~1200年頃の標準版の『ギルガメシュ叙事詩』がある。


①前1600年頃のシュメール語の『シュメール語洪水物語』

これは都シュルッパクが洪水で滅亡する話だが、考古学的にもシュルッパク周辺は前2800年頃に洪水被害に遭ったことが判明している。したがって、1000年以上口伝で伝承されたと考えられる。この粘土版が他の類似した全ての粘土版の起源とは断定できないが、何らかの史実が下敷きとなっている可能性が高い。

その物語。主神エンリルは五つの都市を五人の王に治めさせていた。

①エリドゥはヌディンムドゥ(水の神エンキの別名)
②バトゥティビラはヌキグ(イナンナ女神)
③ララクはパビルサグ(エンリルの子)
④シッパルはウトゥ(太陽神シャマシュ)
⑤シュルッパクはスドゥ(息子はジウスドゥラ)
※これは『シュメール王名表』(前2450年頃)における洪水以前の五つの都市と一致している。

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神々(天の神アン、大気の神エンリル、水の神エンキ、母神ニンフルサグ=ニントゥ)は大洪水をもたらして人類を滅ぼす誓いを立てた。(理由の部分は欠損している)。しかし、情け深い神エンキは、人間を救うため密かにジウスドゥラ王(永遠の生命の意)に啓示する。ジウスドゥラはシュルッパク王の息子であり、聖油を扱う敬虔なグダ神官であった。エンキは祭儀所の壁の向こうから王に語りかけ、船を造って洪水から逃れるよう啓示する。ジウスドゥラ王はこの啓示に従い、巨船を建造して七日七晩の大洪水を乗り切った。巨船に窓を切り抜くと太陽の光が差し込んできた。彼は外に出て、神々に牛と羊を犠牲にささげ、神々に平伏する。アンとエンリルは、動物と人類の種を救済した彼に神の如き永遠の生命を授けて、ディルムンの山に住まわせた。


②前1635年頃のアッカド語の『アトラ・ハシース叙事詩』

粘土板1翻訳(上)粘土板1翻訳(下)粘土板2翻訳粘土板3翻訳

3枚の粘土板で構成される。その物語。高位の神々(アヌンナキ:天から地に降りた者の意)と下位の神々(イギギ:見る者の意)がいた。主神エンリルは、下位の神々に灌漑用水路の維持管理を任せていた。しかし40年もの重労働のため下位の神々は反乱を起こし、アヌンナキの神殿を包囲した。そこで主神エンリルは神々の会議を開いた。そして水と知恵の神エンキの助言によって、人間を創造して神々の代わりに仕事をさせることで和解した。

しかし1200年後、人類の人口は増殖し、その騒音で神々の眠りを妨げるようになった。そこで主神エンリルは疫病を放ち、人類を間引きした。さらに1200年後は大干ばつ、その1200年後は飢饉をもたらした。その1200年後に、ついに主神エンリルは大洪水をもたらして人類を全滅させようとした。

情け深い神エンキは人類を救うため、アトラ・ハシース王(賢き者の意)に密かに壁際から啓示する。家を壊して舟を造り、上下に覆いを付け、アスファルトで防水せよと。アトラ・ハシース王はこの啓示に従って箱舟を建造し、あらゆる鳥と動物たちと家族を箱舟に乗せ、閂を閉じた。すると嵐と雷の神アダドによって大雨が降り注ぐ。箱舟は七日七晩の洪水を乗り越える。人間の創造者である母神ニンフルサグは人間の滅亡を嘆き、主神エンリルにやり過ぎだと不満を述べる。主神エンリルは水の神エンキに人間を逃したことを怒るが、人口過剰問題を解決するために人間の寿命を短くすることで折り合いをつけ、和解する。


③前1300~1200年の標準版の『ギルガメシュ叙事詩』

これは12枚の粘土版で構成されており、洪水の話は粘土版11の話である。英雄ギルガメシュ(祖先は英雄の意)は戦友エンキドゥの死をかいま見て、永遠の生命を求めて旅をする。

ギルガメシュはかつて大洪水を免れて永遠の生命を手に入れたウトナピシュティム(生命を見た者の意)のもとを訪ねる。ウトナピシュティムはギルガメシュに、自分が永遠の生命を受けた秘密を打ち明け、洪水のいきさつが語られる、という内容である。

天の神アヌ、大気の神エンリル、軍神ニヌルタ、嵐と雷の神エンヌギ(アダド)、知恵と水の神エア(エンキ)が会議を開き、大洪水によって人類を滅亡させる決議をする。しかし、エアは人類を救うために、壁際からウトナピシュティムに啓示し、箱舟を建造するよう命じる。

その箱舟は長さと幅が等しく、九部屋を持つ七階建てであった。舟が完成すると、彼は舟の中にあらゆる生命を入れた。扉が閉められると、七日七晩洪水が起きた。この洪水により、神々は天へ昇り、全人類は粘土に帰した。嵐が静まると箱舟はニムシュの山(ニシル山)に漂着した。そしてまず鳩を放ち、次いでツバメを放ち、最後にワタリガラスを放つと、ワタリガラスはもう戻って来なかった。ウトナピシュティムらは舟の外に出て、神々に犠牲をささげた。主神エンリルは人類が生き残ったことに憤慨するが、水の神エアは、私は彼に夢を見せただけであり、夢の内容は彼自身の知恵で悟ったのだと告げる。エンリルはウトナピシュティムと妻を祝福し、河口へ住まわせた。


『シュメール語洪水物語』が都シュルッパクの話だというのは、別の粘土版『シュルッパクの教訓』(前2000年頃)で、シュルッパク王(ウバル・トゥトゥ)の息子がジウスドゥラ王とされているからである。シュルッパク王は、『シュメール王名表』(前2450年頃)では大洪水以前の最後の王として記載され、18,600年間支配したという。前2800年頃にこの周辺で大規模な洪水が起きたことは判明している。ただしこれが原因で都市が滅亡したとは一般に考えられていない。

ジウスドゥラ(永遠の生命の意)は『アトラ・ハシース叙事詩』ではアトラ・ハシース(賢き者の意)、『ギルガメシュ叙事詩』ではウトナピシュティム(生命を見た者の意)と呼ばれている。彼は洪水を生き延び、神々により永遠の生命を受けた後、ディルムンの地に住んだ。ギルガメシュは彼の話を聞きにこの地を訪ねた。『シュメール語洪水物語』でも、ジウスドゥラはディルムンに住んだと記されている。ディルムンの地がどこにあるか正確な場所は不明だが、現在のバーレーン島にディルムンがある。ディルムンはメソポタミア神話では楽園のような場所である。

また、『ギルガメシュ叙事詩』では漂着したのはニシュム山(ニシル山)であるが、旧約聖書ではアララト山である。

つまりメソポタミア神話では、かつてシュルパックには、大洪水以前にシュメールの地を支配したシュルッパク王がいた。彼の息子ジウスドゥラ(=アトラ・ハシース、ウトナピシュティム)は箱舟により大洪水の被害を逃れて、ニシル山(もしくはアララト山)に漂着し、神々から永遠の生命を受け、その後ディルムンの地に住んだ。後に英雄ギルガメシュはディルムンに彼を訪問した後、帰還してウルクの城壁を建設した、と信じられていた。

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『旧約聖書』の『創世記』では、このジウスドゥラ王がノア(休息の意)に相当する。ノアは大洪水を生き延び、彼の子孫からニムロデ(我らは反逆するの意)が起こり、このニムロデが洪水後最初にメソポタミア地方を支配した。このニムロデが誰に相当するかは不明だが、恐らくキシュ第一王朝のエタナ王か。彼は「天に昇りし者、全国土を固めし者」とされる。

メソポタミア神話と旧約聖書を統合すると、かつて高位の神々(アヌンナキ)と、下位の神々(イギギ、またはネフィリム:落とされた者の意)と人間が共存した時代がシュメールの地にあった。アヌンナキは天使たちであり、彼らは人間の娘と婚姻して半神半人のイギギ(ネフィリムたち)を生んだ。ネフィリムたちはシュメールの地を開拓し、灌漑事業に従事したが、やがて反乱を起こし、すべての労働を人間たちに押し付けるようになった。洪水は高位の神々(アヌンナキ)の気まぐれによるのではなく、唯一神ヤハウェの裁きによる大洪水であり、アヌンナキらは洪水を逃れて天へと帰還し、その地のネフィリム(イギギ)と人間たちは全滅した。したがって、その洪水を生き延びた人物がメソポタミアの人々の先祖であり、洪水以後の王の祖父となった人物である、と。

洪水を生き延びた人物はジウスドゥラ、またはノアであり、洪水以後の王はキシュ第一王朝のエタナ王、またはニムロデとなる。キシュはクシュと関連があるかも知れない。旧約聖書によれば、ノアの子ハムの子はクシュであり、クシュの子はニムロデである。

聖書学では、創世記のノアの洪水の記述部分は、ヤハウィスト(J資料)と祭司(P資料)に基づくものであり、ヤハウィスト(J資料)はB.C.962以後の南ユダ王国に伝承したもので、これが後に北イスラエルの伝承(エロヒスト、E資料)と合体してJE資料となり、バビロン捕囚期に祭司(P資料)が加筆され、捕囚後のエズラの時代に完全版となった、と見なされている。

したがって、創世記のその他の伝承や、ノアの洪水伝説自体はバビロン捕囚期より以前から口伝律法としてヘブライ人に伝えられていたと考えられる。ヘブライ人の先祖(所謂アブラハム)はメソポタミアのウル出身なので、メソポタミア神話経由の伝承と思われるが、独自の伝承として伝えられていた可能性もある。

いずれにせよ、大洪水に関するメソポタミア神話と旧約聖書はある程度対応する。しかし、類似した歴史的モチーフを用いていても、旧約聖書はバビロニアの多神教的な気まぐれな神々による歴史観に対する対抗心が随所に見られる。ノアの洪水物語では唯一神の正義の裁きによる歴史観として打ち立てられている。

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