グローバリズムは可能なのか

グローカル(glocal)という言葉があります。グローバル(global世界的な)とローカル(local地方的な)の合成語で、〈「Think Globally,Act Locally」を略した言い方〉(『現代社会用語集』山川出版社)、〈世界的であるとともに、地域的であること〉(『現代カタカナ語辞典』旺文社)とあります。よく耳にするのは、カレーを例にとったもので、カレーというインド由来の料理を、日本人の口に合うようにアレンジしたおかげで、国民食と呼ばれるようになった、というものです。つまり、オリジナル(グローバル)があって、それを地域の特性に合わせて、アレンジ・展開していく、ということです。

これを、「Think Globally,Act Locally」といっていいのでしょうか、疑問に感じています。「Think Locally,Act Glocally」と言い換えたほうがよいように感じます。そもそも「Think Globally」とはどういうことを言っているのでしょうか、また、「地球規模で考える」ことは可能なのでしょうか、私たちに、全体を、いや、世界を実感することができるのでしょうか。

ローカルが、現実にある地域、もしくは、さまざまな形をもつ共同体であるのに対して、グローバルは、全体的なものなのですから、それは理念としてしか認識できないもの、のように感じられます。前者は多様性が包摂可能であるのに対して、後者は単一・均質化を指向するもの、としてある、と規定できそうです。当然、単一化を指向するのですから、それに沿わないものは排除されることは、容易に推測されます。

現実に、グローバルな活動や交際などをされている方たちもおられます。しかし、彼らは、同じ階層であったり、同種の世界観や価値観をもっていたり、利害関係で結ばれた、いわば仲間のような集まりなのでしょう(どこであっても同じ生活スタイル)。それは、なんらかの共感に基づいて、成立したもの。だって、わざわざ、どこの誰とも知れない異なった意見をもつ者と、なんのつながりもないのに、交際することはないでしょう。

グローバリゼーション(globalization世界化)の手段であるインターネットの活用にしても、欲しい情報や心地よい意見ばかりを求めてしまう、のは良く知られています。もし、SNSなどで、見解の異なる人と接すれば、平行線で対話は続かず、不快な結果になるのは確実です。だから、グローバリズムは排除に基づき閉じられている、という傾向をもちます。

自立した道徳的人格として認め合い、自分たちの属する政治的共同体のために一緒に何かをしようとしている状態を、アーレントは「複数性plurality」と呼びます。アーレントにとって「政治」の本質は、物質的な利害関係の調整、妥協形成ではなく、自律した人格同士が言葉を介して向かい合い、一緒に多元的(plural)なパースペクティヴを獲得することなのです。異なった意見をもつ他者と対話することがなく、常に同じ角度から世界を見ることを強いられた人たちは、次第に人間らしさを失っていきます。

仲正昌樹『悪と全体主義 ハンナ・アーレントから考える』NHK出版新書 2018 (149-150頁)  

「異なった意見をもつ他者」と出会い、対話が可能になるのは、「自立した道徳的人格として認め合」う「自分たちの属する政治的共同体」という場においてしか、可能とはならない、と述べています。つまりそれはローカルな場である、ということです。なぜなら、それは、認め合うことのできる「共同体」を前提としているからです。

では、「複数性」とはどういう状態のことなのでしょうか。

「複数性に耐える」とは、簡単にいうと、物事を他者の視点で見るということです。
 自分か考えていることや信じ込んでいることが間違っていた場合、それを自分一人で考えて正すことは、かなり困難です。複数の人とともに考えたとしても、同じ意見や考え方の人ばかりが集まっている場では、結局同じものしか見ていないものです。物事を他者の視点で見るという場合の「他者」は、異なる意見や考え方をもっていることが前提となります。

同上 189頁

「複数性」とは、自分の意見が絶対である、という態度を担保するもののことで、「そういう意見もあるよね」といった相対主義におちいるのではなく、何らかの合意形成へと導くもののことをいうのでしょう。

そのためにこそ「教育」が必要だ、と安藤寿康は述べています。

しかし自分の住む世界からは想像のつかない生き方をしている人たち、たとえば日本と大きく異なる文化的・経済的・政治的状況の中で生きている人々(イスラム世界やアフリカの狩猟採集社会など)や、同じ日本でも異なる生物学的・社会的条件の下で生活している人々(たとえば性的マイノリティや被差別部落に生まれた人々など)については、やはり個人のかぎられた経験で個体学習や社会学習をするだけではわかりにくいものです。(……)リアリティをもって自分と異なる生き方をしている人たちの置かれた状況や気持ちを想像でき、そのうえで考えることのできるための教育が必要であるように思われます。

 安藤寿康『なぜヒトは学ぶのか 教育を生物学的に考える』講談社現代新書2018(130頁)

「想像のつかない生き方をしている人たち」などの「置かれた状況や気持ちを想像する」、ここには共感はもたらされないでしょう。それをどのようにして学べばいいのでしょうか。ローカルな場において、意見の異なる具体的な「他者」との対話を通じて、しかありません。もしくは、読書などによっての「気づき」もあるでしょう。理念などに基づき、包摂しようとするグローバルな共有・共感を志向することは、排除と分断を避けることができません。

では、可能なグローバリズムとは、どのようなあり方なのでしょうか。

マルクスとエンゲルスは、『共産党宣言』で「万国のプロレタリアートよ、団結せよ」と訴えかけています。今では、プロレタリアートを「サバルタン」と言い換えるべきでしょう。疎外されている(あらゆる人たちはその側面をもっています)を重視して、届かない声が連携し合う、まさにローカルからの視線なしには、成し遂げられない「グローバリズム」。

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