蘇る思い出
保育所の解体に伴い、荷物の持ち出しの立ち入り案内状が
届いたので、娘と行って来ました。
あいにくの雨でした。
雨女の娘、本領発揮でしたね。
子供たちが通った保育所。
中に入るのは12年ぶり。
当時の所長先生がいらしてました。
所長先生に会うのは何年ぶりだろうか?
震災後に何回かお会いしたけど、私が事故に遭って引きこもり始めてからは誰にも会ってないから10年近く経つかなぁ、、、。
中庭にあった遊具たち。
ここで運動会も夏祭りもやったなぁ、、、。
保護者競技で三輪車に乗った記憶があるなぁ、、、。
ここが娘が最後にいたクラスの部屋。
子供たちの入所式や息子の修了式もこの部屋で行われました。
本当なら、娘もまもなく修了式で4月から幼稚園に通う予定でした。
結局、会津若松市で大熊町の幼稚園に通ったけど、息子が通った、野上にあった『大野幼稚園』には通えなかったね。
保育所っぽい絵柄の窓。
自分の荷物を見つけてはしゃぐ娘を見て、大熊町を忘れていなかったことに嬉しくなりました。
お絵かき帳の中を見て思い出話をする親子。
娘の荷物を眺めて、12年という時間の長さを改めて実感しました。
「プールも小さかったなぁ。」とか、当たり前な事をブツブツ言いながら見てまわりました。
「こんなに小さかったっけ?」
久しぶりに入った保育所は、随分と狭く感じました。
そう感じたのは、子供たちが成長した12年という時の流れのせいでしょうか、、。
ピンクの用紙の絵が、娘が描いた絵です。
多分、私を描いたと思われます。
隣のお友達の絵にも、12年の年月を感じます。
修了式で飾られるはずだったのでしょう。
この紙を見ながら、娘は皆さんに見送られて保育所を卒業するはずだったんです。
唯一、持ち出してきた『れんらくノート』。
目を通すと、当時の事が鮮明に思い出されました。
当時5歳の娘には、大熊町での思い出がほとんど残ってない状態でした。
しかし、今回一緒に行って来た事で、少しだけ大熊町での記憶というか、会津若松市に避難してからも含めての大熊町の記憶を思い出して話していました。
…それでいいんだと思います。
5歳の頃の記憶なんて、私だってほとんど残ってません。
なんとなく覚えていて、懐かしむことが出来れば上出来でしょう!
まぁ、
娘が覚えてないのは仕方ない…。
でも、本音は大熊町を覚えていてほしい。
それで保育所に一緒に行こうと誘ったんです。
娘も『思い出したい』という気持ちがあったんだと思います。
だから、行ってくれたんだと思います。
一緒に手を繋いで歩いてたあの頃。
この日も手を繋いで歩いて行きました。
今でもよく手を繋いでくれる優しい娘です。
息子もたまに帰って来ると、私を気遣ってくれる優しい息子です。
2人とも、12年間本当に色んなことがあったけど、よく我慢して頑張ってきました。
この先もまだまだ、我慢したり頑張っていかなくちゃいけないことが多いと思うけど、ウチの子たちなら乗り越えて自分の道を切り開き歩いていってくれると思います。
…思い出の場所たちが解体されるのは寂しいです。
幼稚園も解体されたし…。
でも、大野小学校はインキュベーションセンターとして残ったし、児童館も公社として残ったし…。
この先も町が変わっていくのは仕方がないのでしょう。
でも、変わらないで残ってほしい部分もあります。
古今を共存させてこの先進んでいってほしいというのが、私個人の思いです。
早く解除になって帰れますように……。
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