見出し画像

虚実日記5月

5月1日
友だち「元カノと絶縁した。」

今? 元カノと? どうやって? 絶縁?

5月2日
政府が新型コロナへの対応を恐ろしく緩慢に講じた結果、国民の間には少なくない不安が蔓延し、未曽有の事態であることを半ば当然のように把握するに至っている。途方もなく不十分なウイルス管理対策の実施によって、日本列島はまるで感染で煮えた切った鍋のような状況になりつつある。この思いがけない契機を経ておれは、不安は気持ちを停滞させるものだと痛感している。今思い返せば、あのクルーズ客船・ダイヤモンドプリンセスに我々は皆乗船していたのだ。集団感染が起きて船内に隔離されるだなんて不運だなーなんて、ぼんやり眺めている場合ではなかった。何事も自分事として捉えなければ、情報は情報のまま死んでいく。今この文章を書きながら、ゆらゆら帝国の
「ズックにロック」を聴いているが、サビの歌詞は
「 だめだ 俺はもうだめだ 俺はもうだめだ 」だ。
おれがこの曲を聴くときは決まって本当にダメなとき。俺は今だめだ

5月3日
四月一日から日記を書き始めている人が沢山いる。非日常だから日記を書いているのか、日常を取り戻すために書いているのか。しかし日記以前に日常はあったのだった。

5月4日
千鳥のやりとりが書き起こしされていた。

大吾「 」ノブ「 」

言い方、声の大きさ、声の温度、表情。
読んだだけで、ニュアンスがかなり正確に伝わる気がした。声で記憶されてるってすごいことだ。千鳥は、千鳥が言っているからこそ面白い。そして自民党は「自民党」という名前だから支持され、共産党は「共産党」という名前だから反発される。おれの名前は川舩晃平。おれの声で再生してくれ。

5月5日
小学生が群れている。コンビニのまえでアイス舐めながら夏をやっている。強い日差しは彼らの身体を煌々と照りつける。かれらに夏休みは来ない。

5月6日
子ども手作り「ポリ防護服」医師会に1400着寄贈していた。おれが次出る演劇公演の衣裳も子どもたちが作ってくれないだろうか。もし作ってくれたらあまるほどの稚拙さに感動しておれ泣くよ。

5月7日
何にもすることがない。色々やり尽くして一周した感がある。掃除や料理や読書や運動や。残されていることといえば、キッチンのシンクでほったらかしされている豆苗の水を変えることぐらいである。豆苗は育つ。何もせずともぐんぐん育つ。だらだらしているおれの横で、豆苗はぐんぐん育っていくのだ。

5月8日
〝カシャッ〟
動画かと思ったら写真だった。
写真かと思って動画だったらネタになるけど、
動画かと思って撮られた写真はただのボツである。
写真の墓場行き。

5月9日
こんな時こそ人間の本質が出るとか、こんな時に会いたいと思う人が本当に会いたい人だとか、それっぽいことが散々言われてる。
「こんな時こそ」人間の本質が出る、その人の本性が出るって本当かよ?って思う。人間の本性なんていつでもどこでもずっと在るものだとおれは信じてるから。こんな時なんてなくて、今まで通りの違う毎日の中でおれらは暮らしてる。出るぞ出るぞ、本質出るぞ!って今だけ限定で出来た間欠泉眺めてるみたいにしてるけど、きっと本質って途切れることなく湧き続けてこぼれてしまう。そして人は本性を〝出す〟とき演じてもいる。いつでも話せる人より、その時しか話せない人の方を大事にするのが人の常で。
今誰かにとって会いたいと思われている自信が全然ない。会いたいって言ってばっかで会いたいって言われない。ずっとそう。

5月10日
炭酸飲んで「刺激的だなー」て言っていた。 暇。

5月11日
釣り記事の先に震災があった。変な釣り糸を垂らさないでほしい。悼む心に余計な感情は微塵も混ぜたくない。

5月12日
東京住みの友だちとリモート飲みした。かれは高円寺に住んでいるが、商店街に行けば人の出入りは普通にあるという。テレビで報道されているように渋谷や新宿は閑散としているようだが、生活圏はそういうことでもなさそうだ。つまり渋谷や新宿は誰の街でもなく、同時にみんなの街でもある。詳しく云えば人が一時的に集まる避難場所であり、騒ぐスペース。

5月13日
自粛期間を大人の夏休みだと思うことにした。夏休みなら夏休みらしく努めなければならない。絵日記をつけよう。子どもの頃、夏休みの宿題でアサガオの観察日記をつけた覚えがある。あれをしよう。ただうちにはアサガオがないからアサガオの代わりにツイッターを観察しよう。じぶんのアカウントのフォロワーの変動を観察するのだ。絵を描こう。ツイッターは根も葉もないから数字を拾って棒グラフにでもしようか。絵日記を始めて一日経って、二日経って、一週間が経った。少しも変化がない。フォロワーの数は変わらない。そのあと一週間、二週間と続けたが、段々とグラフがコロナの感染者数を示しているような気がしてきたのでやめることにした。

5月14日
SNS全盛になって、とくにYouTubeが盛んになって、需要がなくても供給をしてもいいんだ的なことが一般的になった。誰だって発信していいし自分のメディアを持っていい。いつ頃からか、人類は総クリエイター時代に突入した。つまり世界は、供給が需要を上回る状況になったのだ。しかしこの渦で、どうやらその状況に変化が生じているのではないかと感じている。需要があるのに供給が足りない。圧倒的に供給が足りていないのではないか。言い換えれば、局地的な供給過多になっているのではないかと思う。世界はあっという間にリモートに乗っ取られ、Zoomなるアプリが席巻している。テレビも映画もドラマも演劇もライブも、すべて画質の悪い動画になってしまった。あの、スマホ画面がさらに分割された小さな窓枠の中でもどうにか面白いものを作れないか、クリエイターは試行錯誤を繰り返しとても精力的に作品を発表し続けている。しかし我々は元の世界の自由さを知っている。人と人が、同じ時間同じ空間に、当たり前に一緒に居れたことを知っている。動画にしても、高画質かつ巧みな編集が施された作品にこれまで当たり前のように触れてきたのだ。発表される作品はどれも、その不自由さから放たれようと試みているのだが、却ってその努力が、努力を感じるがゆえに、不自由さを感じさせてしまう。CanがGoodになりえず可能性だけを持ち続けていると思うのだ。可能性に希望を見るのもありだと思うけれど、おれは気落ちしてしまう。観るたびに「非日常」を感じてしまうから。「今」はプロセスと準備の日々だと思い知らされる。そこまで観てもいないのにもう観たくない。Zoom演劇に関して言えば、進化すればするほど演劇から離れていきそうだ。演劇がSNSな人の持ち物になって、尺が短いお洒落な予告になっている。クリエイターはこの事態が収まって日常が戻っても、Zoomでの創作はするのだろうか。やめるだろうか。やめたとして、やってた意味がないとは思わないけれど、やるだろうか?とは思う。きっとおれは世界が元に戻ったら、ソーシャルディスタンス・三密・アベノマスクと同じようにZoomを見れば新型コロナ自粛下を連想してしまう。

5月15日
友だちの亀ちゃんと往復書簡を初めて早一か月が経つ。自粛期間中何かせねばと始めたが、自分の精神安定を保つためにもやり始めて本当によかった。もし部屋に引き篭もってばかりで何もしないまま自粛生活を終えていたら、きっと自分のせいじゃないのに勝手にへこんでいたと思う。ナイス!先月のおれ!
そうそう。何を隠そう、おれと亀ちゃんペンフレンドになったのだ。いわばPenpal. 謎に英語の教科書とかに出てきて当たり前にワケわからんやつ。あれに、おれらはなりました。もうこんなことは人生においても中々にないと思うのだ。延期でも中止でも停滞でもなくて、こっちはスタート。新たなことも始まってくぜ。

5月16日
ボビーオロゴンが自宅で妻の顔面を叩く暴行を加えたとし逮捕された。ネット上では、ボビーの本名が近田ボビーであることに盛り上がっていた。「ってか本名www」と。おれは、アメリカでコロナという名前が原因で差別された少年のことを考えていた。さて、どこが違うだろう?
ところで日焼けサロンに週8で通う人は日焼けサロン行きすぎだし、大坂なおみは世界的テニスプレイヤー。

5月17日
どこもほぐせないストレッチ動画をみた。見事なまでにほぐせない。徹底的に、ほぐれない。あまりにもだったので気持ちは柔らかになった気がした。

5月18日
西村康稔経済再生担当大臣の指示によって、休業中の航空会社の客室乗務員(CA)が防護服の裁縫を支援しているという。しかも無償で。お手伝いで。検討している旨の記事を4月に読んではいたが、実際に行われているというから驚いた。動画を見れば、わざわざ制服着させられたCAがミシンを使ってせっせと裁縫やっていた。二重三重におかしい。仕事を失った裁縫のプロもいるだろうに、なぜ女性が多い職場に割り当てられるのか。ど変態の発想だ。あまりにも気持ち悪すぎるので西村大臣の顔写真をプリンターで印刷してそこに射精してやっつけた

5月19日
こうも外出自粛が続くと当然居酒屋に訪れる機会も出来なくなるわけで、乾杯が愛おしくてたまらなく感じている今日この頃である。乾杯のとき、グラスを当てて音を立てることがどれだけ趣があったか。乾杯の音は、親睦を深めるために必要なものだったんだなあと感じている。独りじゃ音は鳴らせない。 音がないと始まらない。

5月20日
医療崩壊が起きている?病院でコロナ感染の疑いがある患者の受け入れ拒否が起きているという。
報道を見る限り、4月初めから指摘されているものの状況の改善は見られなそうだ。
しかしその一方で、各メディアによる表現「受け入れ拒否」という言葉が問題になっている。確かに〝拒否〟という言い方はよくないかもしれない。病棟はすでに患者で埋まっているのだから、病院側に非はないはずだ。受け入れ〝不能〟の方がより適切な表現といえるだろう。
言葉が微妙にずれてしまうこと、それがきっかけですれ違ってしまうことはよくある。かつての自分がしたこと、されたこと。疎遠になってしまった大事だった人のことを考える。いつのまにか、想う気持ちも過去形になっている。大事だったなあ、好きだったなあってな調子で。あれも、受け入れ拒否ではなくて受け入れ不能だったのかもしれない。過去の自分を顧みる。

5月21日
ピースボート世界一周のことを思い出した。コロナはクルーズ船から始まったことだし、船での世界一周は最も難しいんじゃないかと。もし可能になっても気が引ける。「ピースボート世界一周」居酒家のトイレなんかにポスターがよく貼られていたけれど、居酒屋が通常営業復活したら無くなっているかもしれない。どうでもいいあるあるも、どうでもいいまま消えていきそうだ。

5月22日
芸能人やスポーツ選手が手本を見せてくれた、お家での過ごし方レクチャー。もう誰もやってない。自粛期間中に始まって、自粛期間中に終わったものは世界に存在していたことになるんだろうか。用が済んで、捨てられ、終わって、終わったことすら終わった所で、そろそろ違うパターンが見たい。たとえば近所のおっちゃんらがやっているパターン。ここらで、手洗いや家での過ごし方を丁寧に指南してほしいのだ。

5月23日
うちの中学は体育祭のリレーがやたら多い学校だった。クラス対抗リレー、部活対抗リレー、男女混合リレー、男女対抗リレー、チーム色別リレー…。他にも幾つかリレーはあり、競技種目のほとんどはリレーが占めていた。それは恐らく怪我をさせる可能性が少ない競技であり、簡単にチームの団結を図れるというところからきていたはずだが、その極端な編成には当時から色々思う所があった。じぶんはたまたま運動がそれなりに得意だったからそれなりをやることができたけれど、そうじゃなかったら地獄だったろうなと。Twitterの種々雑多な#リレーを見ながら中学体育祭時の、速く走れる云々以前に〈バトンが回ってくること・走りださないといけないこと・メインの走者以外はバトンを渡す繋ぎでしかないこと・誰もじぶんの走りを見ていないこと〉を思い出した。バトンやタスキといった感動がタグづけされた単語を使わないでほしい断りづらい。やってることチェーンメールと同じだしせめてチェーンって名にしてほしい

5月24日
インスタライブやリモート飲みの配信。芸能人が芸能人ぶりを存分に見せつけて芸能人してて歯が白くてよろしいなって感じなのだけど、それで世間の需要は完全に満たされそうだ。芸能人が勢揃いして豪華って感覚、許される諸々のことを俺は全然わかんない。分かるつもりないし分からなくていい。
昨今、専門的な分野の細やかな知識や技術を扱うテレビ番組が増えた印象がある。
たとえば〈アメトーク〉は、〇〇芸人と称し、その芸人が好きな物の好きなところを好きなだけ語るトークバラエティだ。番組では各芸人がその対象をこれだけ好きだという、裏づけとしての知識が披露されたりするのだが、ついに芸人同士の褒め合いがなされる回が出てきた。「あの芸人のあれは凄い」だとか、今までは明るみにされてこなかった隠されたテクニックが語られる。それはたぶん、一定の「バラエティの型」や「流れ」が茶の間にバレ、それを知った上でメタ的に楽しむという裏笑いが浸透したからだと思う。また、同じような芸人同士の褒め合いや芸人の技術論の披露はテレビ東京系列番組〈ゴッドタン〉でも見られる。音楽バラエティ番組〈関ジャム〉では、一般視聴者にも知られている人気の楽曲を取り上げながらかなり踏み込んだ音楽理論や音楽技術を扱っている。プロがプロを褒める、どこが凄いのかを教えてくれる。知識がなくとも楽しめ、観ている側は少し賢くなったような気がしてくる。へえ~といった雑学やトリビア・日常で使える裏ワザは、笑いや音楽の知識技術に移り変わってきているように感じられる。語られなくてもよいし、今まで通り語られずして芸がなされていてもよいとは思うが、需要はそれなりにあるのも事実で、それはドッキリやハプニング系・私生活の暴露があまりにも蔓延ってしまったからだと思う。
さて、演技や俳優はどうだ。新進気鋭のイケメン若手俳優(俳優 / モデル)は、または変幻自在のカメレオン俳優は、飲みの席で演技論を語るのは嫌だと煙たがって、画面の中では、いや外でも、語らないのだろうか?欲曝け出して足並み揃えずバカンスか。政治に無関心に人気者になりたいんだったらせいぜい綺麗な顔面晒して見せないちんこ出してバカに見つかってくれ

5月25日
テレビをつけると、おれの今年イチ推し芸人〈ぼる塾〉がしゃべくり07に出演していた。しゃべくりに出たとなれば完全な売れ筋だ。YouTubeチャンネル登録はおれが知っているときは1万人も無かったのに、もう気づけば8万人を越えていて、少し目を離した隙に「みんなのもの」になっていて驚いた。毎度のことだけど、応援している人が世に出て多くの人の目に触れると、嬉しい気持ちと寂しい気持ちで半々になる。〈チャンネル登録数・再生回数・リツイート・いいね〉などネットは、ある一定の数字を越えると爆発的に数字が跳ね上がるイメージがある。大きな数字は、見る前から、内容に構わず、安心と信頼を作ると思うのだ。これだけ多くの人が支持してるから自分も続こうっていう、まさしくフォロワーを生む。SNSにおいて、入り口は開く、関連づけされやすいようにしておくことが重要だ。決して独創的ではいけない。似たり寄ったりに追随しなればならない。
番組の最後、ぼる塾メンバーの田辺さんがリモートで画面越しにスタッフと話すシーンがあって、背景が家過ぎて笑った。いくら家とはいえ家すぎる。リモートって他人の家の一部を微妙に見ていく感覚があると思っていたのだけど、今まで見てきた中で田辺さん圧倒的に家だった。家過ぎるってなんだろう。うしろには襖が映っていて、それが原因だろうか。生活感とは一体何のことを指すのか。和風な家だと、イコール、「実家」を連想させて家感増すのかな?

5月26日
地元の友だちとZoom飲み会を開いた。地元の友だちと飲むとき一番嬉しいことは、終電を気にしないでいいってことだ。基本酒を飲むとなれば東京で、おれは神奈川の茅ヶ崎に住んでいるから大抵一番乗りで店を後にする羽目になる。元来おれは別れ際が下手くそだし、本当は最後まで残って飲んでいたい性格なものだからバイバイが悲しくって仕方がない。毎度、今生の別れよろしく駅へと向かうのだ。だからこそ、おれにとって地元での飲みは他にはない尊さがあった。しかし今回はZoomだ、リモートだ。これでは全く利点を活かせないではないか。電車に乗らないし、密にはならないし、茅ヶ崎そんなに人いないし、別にふつうに海とか行って缶ビール片手に語らってもよくね?とか思ったりもする。まあ、それでも…と思っていたら画面越しで友だちが吐いた。突然吐いた。しかもちょいゲロとかじゃなくてしっかりめに吐いた。同じ場所いないし、お互い今家だから臭いとかしないけど、正面で顔見て話すシステムがゆえにちゃんと見てちゃんと吐いてた。スマホの画面は、ごめんって言いながら口元拭いてる彼のすがたを映してて おれ下向いて隠れるようにモライゲロした。

5月27日
YouTubeで、瀧がインタビュー受けてて普通に痰吐く動画見て笑った。ときどき無性に見たくなるやつ。おれコロナ終わってまずやりたいことは狂人ドラム大会です。お願いだから卓球ちゃんとクスリやっててほしい。

5月28日
ぐうたらとは、きちんとした椅子に座らないということである。ふかふかのカーペットの敷かれた床にごらんと寝転がり、身体を投げ出せば、心ほどけて体感ぬるくなる。腰を浮かせることなく、ただ漫然と尻を中心にした姿勢の維持につとめよう。瞬く間実体はどこかへ溶けてしまった。家で100点の仕事できるヒトって?でもここでは、ぐうたらが満点。

5月29日
人類最速のスプリンター、ウサイン・ボルトが
日本陸上短距離選手、桐生祥秀と対談している動画を見た。ボルトはこう言っていた。
『いいか、桐生。自分のために走れ。それが国のためになればいい。まずは自分のために走る。そして楽しむ。それが日本のためになるんだ。それが日本のためになるんだ。決して国のためだけに走ってはだめだ』
おれは、自分のためにやる、というのはどこの世界でも共通の認識なのだと知った。この「国」は「チーム」や「会社」などにも置き換えられるだろう。そして何より「あなた」にも。
同時に、日本のスポーツ界が(例えばサッカーや卓球やバドミントンを筆頭に)盛んになり競技人口が増えて世界で通用するようになったのは、国から充実した支援がなされるようになったからだとも思う。支援とは、選手が若い頃から世界の舞台で活動できるように充実した環境を整えるということであり、つまりはお金の投資である。国がお金を投資したからこそ選手は恵まれた経験をすることができ、競技の強化に繋がった。国はお金を投資すべきだし、だからといって選手は国のために戦わなくてよいのだ。
そこでやはり「国」が「あなた」だった時のことを考えずにはいられない。あなたは、あなたとして独立して自分を勝ち取ればいいのだろうが、どうも完全には腑に落ちない。国はお金という形で支援をすればよいが、わたしはどうしたらよいのだろう。あなたや私は、あなたや私という独立国家を築いて自分(=わたし)のために戦い、ひいてはそれが国のために戦うことになり、国家間で紛争するしかないのだろうか。

5月30日
居酒屋に行きたいが、一軒目酒場は一軒目に行く酒場ではないことは覚えていたい。酒の質がしこたま悪いので一杯目からたくさん飲むような店ではないことを覚えていたい。

5月31日
「本当は」「本当なら」という言葉を目にすると心が痛む。予定されていたイベントはすべてボツになってしまった。どこに怒りを向ければいいのか分からないし、ただただ悔しい。一方で、本当ってなんだろうとも思う。果たして今は、本当じゃないのだろうか。嘘だろうか。

#日記 #エッセイ #コラム #ノンフィクション #フィクション

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?