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虚実日記4月

4月1日
新型コロナウイルスについて正しく知る・正しく怖がる。マスクやアルコールを正しく使う・正しく対処する。この文言を様々なメディアで目にしては全くもってその通りだと思った。同時に、今まで以上に「正しさ」が必要なことや正しさが求められることが怖くもあった。それが正しいかどうかは分からなかった。

4月2日
映画の中のオダギリジョーを見るたび思う。
オダギリジョーがオダギリジョーなのズルい。

4月3日
マスクしてて、あっちの人はこっちの人みたいだし
こっちの人はあっちの人みたいだ。これでは おれはおれを見失いかねない。自粛終わって、マスク外せるようになって、みんなして外して、素顔見せ合って、何だか恥ずかしいなって感じで見つめあって。そんな日は果たして来るのかしら。

4月4日
マスクをしていると、用途を聞かれがちだ。
なんでしてるの?風邪?花粉?予防?と問われる。
「予防」と答えては、あーよかった。と安堵され
「花粉」と答えては、花粉ひどいよね、痒くって仕方なくてさ、目玉なんか出して洗いたいよ。もーほんと痒い、嫌になる。と怒涛の如く花粉症の惨状を報告されることになる。このとき、たとえ風邪のためにマスクをしていたとしても「風邪。」と答えてはいけない。早く帰りな、と大した心配もされずに帰宅を促されるだけだからである。つまりあれは、用途を聞いているようで一種の攻撃なのだ。花粉症や予防以外は許さない、風邪をひいているならここに来るな、とっと帰れ、と暗に言っている。そして同時におれは、マスクの用途を聞かれるときに感じる、おれ自身の心の機微について考える。
おれには「なんでしてるの?」は
「なんで生きてるの?」に聞こえる。なんでマスクしてるの?が「なんでマスク〝なんか〟してるの?」であるように、なんでお前〝なんか〟が生きてるの?と言われている気がする。なんでおれは生きているのだろう。何処かへ帰らないといけない気がする。前もってやらないといけない事があるような気がする。
マスクへの問いは、しばしばおれを混乱させる。

4月5日
これ、あれだね。「換気しましょう」ってんで、窓開けれるからまだいいね。もし閉めてなきゃダメっつったら大変だよ。雨の日は嫌だ。うん。今日はお天気なので窓を開けよう。窓を開ける。今日の茅ヶ崎、風が強くてベットベト。潮風びゅうびゅうベッタベタ。おれ赤くなったら錆びたんだと思う。

4月6日
北海道に鳥貴族はないと知って、いたく驚いた。
北海道という地は都市として機能してるのだろうか。

4月7日
ネット記事を読んでいると、
ダイアン津田がインタビューに答えていた。
「コロナと戦うみなさまに すー を差し上げます!」
 こんな時に すーはいらない。
今までもいらなかったし、これからもいらない

4月8日
ほぼ全員と言っていいほど、大勢の人がマスクを着用して、顔の大部分を覆っていて、ひとの形貌の個性というのは無くなるんじゃないかと思っていたが、意外とそうでもなさそうだ。というのもマスクが個性を持ち出したからだ。そしてみんなマスクに個性があることに慣れ始めてもいる。どんなモノでも遊びは産まれる。暇こそクリエイティブの親なのだ。

4月9日
誰にも会わないことをいいことにニンニクばっか食べて静かに臭い。そんなことお構いなしにぱくぱく食べてぐんぐん臭い。

4月10日
コロナ自粛におけるDV増加について、
ある女性のお笑いさんがコメントしていた。
「女性はついつい言い過ぎるから…」
言い過ぎだと思った。っていうか何それ。は

4月11日
都内で交通事故の数が激減していると記事で読んだ。外出を自粛する動きが広がり、大幅に交通量が減少したことで事故の数は減ったのだという。さらに読み進めるとその内情は興味深く、逆に「死亡者」の数は増えているのだという。つまり事故が減っても死者の数は増えているというのだ。
ところでおれは、じぶんの身に降りかかったそれが事件なのか事故なのか瞬時に判断できるだろうか。
要するに、故意なのか、故意でないのか。
例えばサッカーでは、意図的にボールを手で触れるとハンドとして反則をとられる。この「意図的に」の部分がとても重要で、つまりは不可抗力で触れた場合はハンドではないのだ。しかし、このルールが近年変わった。意図的でなくとも、手がボールに触れたらハンド・反則ということになったのだ。微妙な判定をなくすためになされた変更な訳だが、偶然でも反則とは些か厳しい。元々ぼくらはこんなにも不自由で、意図せず手が出てしまうこともあって、明らかに故意ではなく、且つ、避けられないこともあるからだ。車に限らずアクセルとブレーキを間違える時はあって、そしてそれは誰にでも起こりうることで、事件がなくとも人は死ぬのだ。

4月12日
今日は例のことが起きた事件当日だった。これのどこが政治利用なの?て言われてほしくないので徹底的に言及してほしかった。精一杯で賢明な対応だなと思った分、抑圧されてることを感じた。おれも世間もこの事について暫く考え続けることになるだろう。

4月13日
メモ。「今」における、タピオカの対義語はzoom

4月14日
テレビをぼー。する。
動物たちが見世物と化していて悲しくなった。
もう住宅地を逃げ回る動物を必死に追いかける警察官を面白がりたくはない。そんな悲しい真似はしたくない。世界の警察官は、動物は最後はひとの股からすり抜けて逃げることをいい加減覚えてほしいし一連の騒動を「お騒がせモノ」で言い表さないでほしい。お騒がせしたのはおまえだ。世界が乏しい。

4月15日
YouTuberさんすごい。の語られ方は
「毎日」と「編集」の大変さの一点張り。
それは量産の極意でもある。

4月16日
午前5時43分。けたたましい着信音に飛び起きる。
電話の主は高校時代の友だちの梨山だった。
「なすが話題になってるよ!よかったね🍆🍆」
「…」
「じゃ!」
ガチャッと音を立てた電話は切れた。なす?と不思議に思いながらも、起きたての頭は考える脳を持ってなく、眠気に負けてベッドへ戻る。
午前11時21分。朝昼兼用のご飯を食べながら朝方のことを思い出す。あれはなんだったんだろう。一瞬夢かと思ったが夢ではなかった。しっかり携帯の履歴には有山の名前が残ってる。なす?話題になってる?
いくらなんでもヒントがなさ過ぎてこんがらがる。もしクイズだとしたらクイズの作り手としては失格だ。まあいいか、と思いながらも、インパクトがある見出しなだけに無下にできない。仕方なく検索をかける。「なす」まさかおれ、なすを検索する日がくるとは。検索結果が出てくる。ほー。なんやら電波少年でお馴染みの なすびが、自粛生活にコメントして話題になっているのだそうだ。梨山め、なすびのことを「なす」と呼ぶな。そもそも なすびのことを俺に報告するな。俺はファンじゃない。世間と同じぐらい「なすび」に興味がない。

4月17日
2020.4.17 今日は当日だった。
要らなかった物が届かなかった時に抱く感情の正解探してる。

4月18日
他人の作ったご飯を食べられない状況下とはいえ
「人の作ったご飯を食べたい」となっても
「人の握ったおにぎりを食べたい」とはならないね。 不衛生への頑なさ。

4月19日
綺麗な画像見せるために
一度タップさせないでほしい。

4月20日
さまぁ~ず大竹が6年ぶりにツイートしてた。
「るっこから、10個を食べる砂糖漬けのさくらんぼだけが入った瓶詰め。…メ!」と言っていた。
突然の奇怪な言動。面白くて笑った。

4月21日
今泉監督はよくつぶやく。悩み葛藤をねちょねちょとつぶやく。「職業Twitter」てほど頻繁につぶやく。でもほんとは、映画も撮っている。ああ見えて映画も撮っている。かれはれっきとした映画監督だ。これまでたくさんの映画を撮ってきて、商業映画だって撮っている。これだけTwitterに熱中していて、よく映画を撮れるなあと思う。Twitterしてない時間もあるんだ、とも思う。語りたいことは映画に詰め込めばいいじゃないか、とも思う。今泉監督の職業は映画監督だから。しかしひとたびそんなことをつぶやけば監督本人からチェックが入る。即座に今泉警察に摘発される。つまり賛辞も酷評も監督の目に触れれば一緒くたにリツイートされる。ぼくらは瞬時に晒し者。監督は今泉監督を見つけるのがうまい。とことんうまい。かれはさながら警察。エゴサーチにエゴサーチを繰り返しては今泉界隈の治安の維持に努めているのだ。律儀な警官。なので黙る。最善は沈黙。沈黙に限る。Twitterはこちらのホームになりえない。なりえないからしょうがないここで。今泉監督の映画すき

4月22日
ツイッターは刺激が多すぎる。
コロナについて知りたいが、拡散という言葉自体に敏感になっている。気持ちの感染経路はわからない。

4月23日
いま岡村隆史annリアルタイムで聴いている。聞いてる人が、文句言ってたやつ叩いてたやつ聞いてないだろ?って威張ってる。それはさておき、おれは聴いている。文字に起こしただけじゃ語弊があるかもしれないけれど、雰囲気が伝わんないかもしれないけど、ほんとにほんとに聴いている。それはもう大威張りったら大威張り。

4月24日
Twitterをまさぐれば、誰も彼も、ちょうど1年前の写真をあげては高橋ジョージ化している。待てど暮らせど来ないかつての日常に想いを馳せている。
「何でもないようなことが幸せだったと思う」
この一節にここまで共感する日が来るとは。まさか高橋ジョージに共感する日が来るとは。でもこんな日常ロードみたいに第何章とか続かなくていいからね。

4月25日
演劇なあ〜とか思いながら友だちと電話で話したりリモート飲みしたり雑談が今めちゃめちゃ熱い。面白いしほっとする。言葉でうまく言い表せないので出来るだけ大雑把に記したい

4月26日
星野源。最初はみんなで歌ったり踊ったりしてたのに、色々あって最終的には首だけになってしまった。当の本人は時折顔を下に向ける仕草や、ギターの弦を抑える所作を面白がられるとは思ってもみなかっただろう。しかし、息が詰まるこの状況下では格好の餌食だ。もう誰も耳を貸さないし誰も踊らない。ひたむきに音を奏でるオモチャが そこに転がっているだけだ。何でも大喜利になって形骸化していく。困ったことだ

4月27日
zoomが普及したことの最もどうでもいい余波として、やたら背景を勧められるようになったことが挙げられる。どうやらzoomとは、複数人の通話のことを指すのではなく「背景」のことを指しているらしい。LINEだって複数人の通話はできるのだからLINEで充分だと思っていたが、そういうことではないのだ。我々は、背景と顔だけで、フレンドリーをしなければならなくなったことを認めなければならない。人間存在は殆ど顔になった。〝顔だけ〟になったのだ。幾多の才能を持つ星野源ですら、その「顔」だけを大衆に弄ばれている様を見れば納得できるだろうか。そして察しのいい方ならお気づきのように、ぼくらは望んでもいないのに なすびの懸賞金生活の真似事のようなことをするように強いられている。追いやられるように部屋に引き籠り、されない補償を夢見ながら出口という出口を探し、さながら電波少年やっている。しかし違うところを敢えて云うとするならば、電波少年は「見たいものを見る、したいことをする、会いたい人に会う」という3つのコンセプトを元にやっていたが、我々はそのどれをも実行出来ないという点だ。密集・密閉・密接を避ける3つのコンセプトを元にやっている我々としては、せいぜい自宅の部屋の隅っこで ゆんゆんするしかないのだ。

4月28日
小泉進次郎が記者会見の場を借りて
「いつもありがとう」というメッセージと収集車の絵が書かれたごみ袋を両手に掲げて、ごみ収集員への激励を呼びかけていた。お題がないのに解答し続けているのはsexyzone中島健人と小泉進次郎ぐらいなものである。

4月29日
さまぁ〜ず三村が始めた しりとり繋げるやつが最高だ。ばかってかんじで最高だ。「さまぁ~ず三村さんから始まった、お家で小さな幸せしりとり」っつって三村から始まったことをみんな必ず言うっていう あの暗黙の了解が実に嫌いで良い。肝心の「しりとり」がリレーを邪魔しているのも滑稽で素晴らしい。こないだの大竹のツイートはこれをやっていたのか。

4月30日
「こんなとき」「こんなときだからこそ」
という言葉を目にしては厭になる。
もちろん知っているけれど、今はこんなときだと分かっているけれど、いざそんな言葉に触れると、まざまざと事実を突きつけられるようで胸が苦しくなる。こんな時だと今を噛み締めなければならなくなる。ここ数日、ぼんやりとした不安から、明瞭な地獄へと移っていることを肌で感じる。もうこれ以上、最悪が更新されないでほしい。

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