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それでもわたしは、地図を見ない酒飲みで。

わたしと親しい人たちはもう充分承知のことかもしれないが、わたしはすこぶる方向音痴だ。まず、GoogleマップをiPhoneごとぐるぐる回したうえに、反対方向に歩く。分岐はいつも二分の一の確率で当たるはずなのに、ほぼ全ての分岐で逆を選ぶ。

それなのに。数年前に恋の病にほだされたわたしは、禁断のひと言を教えられた。

街歩きは、地図を見ないからこそ楽しいよね。

ちなみにこの人とは、渋谷で坂という坂を歩き回ったし、東梅田で同じホテルの前を3回くらい通ったし、目的地に辿り着く頃には迷いすぎて京都ではどこも閉館時間を過ぎていた。間に合ったのは、清水寺の夜間拝観くらいだったんじゃないだろうか。そして、雨の降る東梅田で、その日泊まる宿が見つからずに半泣きになった。

いや、その全てから学べよって思うけれど、あれから数年経ってもわたしは相変わらず地図をほとんど見ない。流石に海外に飛ぶときは、治安くらい確かめるけれども、おかげで誰もわたしの危機管理能力を信用してくれない。

だからこの日も、駅で待ち合わせるはずが反対側の出口で待ちぼうけして、やっと着いたカフェでひと休みしながら

雨も降っているし、外は暗いし、もうどこでもドアがないと動かないぞ!と、そこから徒歩10分の駅に向かおうという誘いにも「ねぇ、タクシー乗ろうよお」と弱音を吐いていた。

それでもここは、中米のスラム街でもなければ地方都市の田園地帯でもなく、トーキョーは浅草。歩けば何かあるだろうと、トボトボとスカイツリーを目指して歩く。

いつも最寄駅から自宅に帰るときも、スカイツリーが大きく見えるようになったら、それは正しい方向。自分の街に、なにかコレという絶対的な目印があるというのは、心強い。

でも、わたしたちはもう20分も歩いている。なにかが、おかしい。

浅草の町では、なぜか弘前ねぷたがやっていて吸い寄せられるようにお囃子を眺めた。なにせ、わたしが生まれて初めて参加したお祭りは、ねぶたまつりらしいので。

お囃子の音というのは、なんでこんなにも心を高揚させるのだろう。雨の浅草にきたら、どうしても浅草寺を眺めたくなって、雨の浅草寺へ。駅、どこにいった。

あんなにも「濡れたくない。歩きたくない。」とぶーぶー言っていたのに、迷子もねぷたも浅草寺も全力で楽しんでしまう。

夜の浅草寺は、最高にかっこよかったけれど、あの反射した水溜りの綺麗な浅草寺を撮るには、雨の日ではなく雨上がりに行かないといけないらしい。びちょびちょだ。

あんまりにも身体が冷えたから、浅草といえばの電気ブランをひっかけて。森見登美彦さんの「有頂天家族」や「四畳半神話体系」を読んでから、電気ブランデビューは絶対に浅草で叶えたいと思っていたので大満足。

次は、京都で偽電気ブランを飲むんだ。

タクシーどころか、倍は歩いてびちょびちょになったけれど、迷子になっても結局「迷子にならなかったら出会えなかったものたちに会えちゃうお散歩、最高に楽しいな。」とお腹を抱えながら笑って解散したので、たぶんわたしたちは、今日もなにも学んでいない。

ふと時計を見ると次のバスが終バスだったので、このときばかりはGoogleマップを開きっぱなしにして電気ブランであったまった身体で夜の街を走った。間に合った。終わりよければ、全てよし。

はぁぁ。やっぱり、トーキョーの街は地図を見ないで歩くとたのしいのねぇ。

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