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「連載小説」姉さんの遺書1

     (胡蝶蘭の章)

僕が姉の訃報を知ったのは、妻の幸子と遅い昼食を取ろうとしていた土曜日の昼下がりだった。

僕は四十歳になるのを機に、勤めていた建築会社を独立する為に退職した。妻と小さな設計事務所を開いたのは、その半年後の春だった。
一戸建ての自宅の一階を自分でリフォームして事務所にあてていた。
開業の当日、姉は大きな胡蝶蘭の鉢を贈ってくれた。幸子は嬉しさと困惑が混じった声を上げた。

「ねぇ、康司さん、こんなに立派な胡蝶蘭、相当高いわよ〜。お返しどうしましょう?」
「事務所に何も花がないよりはいいだろ。お返しは適当に…幸子に任せるよ」
「え〜、困ったわ。だってお姉さん、何でも持ってるんですもの〜」
そう言いながら、胡蝶蘭の鉢の置き場所を決めるのが楽しそうだった。

窓際の棚の上に置かれた白い胡蝶蘭には、咲き誇るのを待つ沢山の蕾が付いていた。
幸子が焼いたクロワッサンとスクランブルエッグ、サラダとソーセージがのった皿を前に『いただきます』を言う直前だった。
事務所の電話が、けたたましく鳴った。
幸子は
「誰かしら?食べる寸前だったのにね」
軽くウィンクして、貴方は食べててと言うように片手で僕を制した。
「もしもし、白井設計事務所でございます」
はい?康司さんに代わりますね……」

事務所の電話に掛けて来るのは、仕事の依頼か母しかいなかった。
幸子は受話器の口を押さえて
『お•か•あ•さ•ま』
と聞こえないくらいの声でささやいている。

咥えたクロワッサンを千切って皿に戻すと、電話口に出た。
「僕だけど?」
「珠姫(たまき)が、珠姫が〜〜」
鼓膜に突き刺さるような母の絶叫だった。
その先を言わなくても、僕は何故か全てを理解する事が出来た。

姉さんが逝った。

母がこれだけ感情を剥き出しに悲しむのは、他には考えられなかった。
それでも僕は待った。母が少しの落ち着きを取り戻して、次の言葉を口にするのを…
「うっ、うっ、う…珠姫が死んじゃった、死んじゃった」
子供のように泣きじゃくる母。
あぁ、やっぱり…
「母さん、何処にいるの?直ぐに行くよ」
「ひっく、ひっく、家よ。たった今…亮一さんから電話をもらって……」
「分かった」

亮一とは姉の夫だ。つまり僕の義兄にあたる。
義兄と姉は地味な僕達夫婦と違って、大学時代からミス〇〇、ミスター〇〇コンテストを荒らすような派手なカップルだった。二つ違いの美しく聡明な姉は小さな頃から僕の自慢だった。自慢と言うよりも憧れを通り越して好きだった。
姉が僕の姉で無かったらどんなに良かったかと何度思ったことだろう。いや、姉だから傍に居ることが出来た。姉じゃなかったら僕は姉の人生を通り過ぎていく通行人の一人、エキストラのような存在だっただろう。
姉は僕にとって、贈ってくれた白い胡蝶蘭のような人だった。
姉の結婚が決まった時、僕はまるで失恋をしたように酷く落ち込んだ。塞ぎ込む自分を人に、特に姉にだけは絶対に悟られたくなかった。あの頃の僕は、毎日弱い酒を飲んで陽気に振る舞うピエロのようだった。
だから亮一義兄さんだったからと言うわけでは無い。どんなに素晴らしい人が姉の夫になろうと僕はその人を嫌いになっただろう。

「姉さんが死んだ」
電話の様子を伺っていた幸子に告げた。
「えっ!ウソでしょ!」
「本当らしい。ちょっと実家に行って来るよ」
「康司さん、少し何か口に入れていけば?」
「ごめん、せっかく作ってくれたのに食べられそうにない…」
「それはそうよね、分かったわ。家の事は気にしないで。直ぐにお母様の所へ行ってあげて」
「ごめん」

幸子は僕には過ぎた良く出来た妻だと思う。
容貌は姉のように人を一瞬で虜にするような華やかな美しさはないが、クルッとした大きな丸い瞳と包み込むような優しさに溢れた笑顔に僕はどれだけ癒やされて来ただろう。
姉を奪われた寂しさを幸子は、優しさと言う愛で埋めてくれた。結婚を決めた理由はそこにあったが、一生誰にも言えない秘密だ。
初めて幸子を抱いた時も頂点に達する時、僕は幸子の中に姉の面影を重ねてイッた。こんな卑劣な男を幸子は、いつも笑顔で支えてくれた。
姉に対する想いとは違う形の想いで、僕は僕なりに幸子を愛していた。

実家は僕の家から車を30分程走らせた海沿いにある。白い瀟洒な二階建ては父が健在だった頃に建てた物だ。今は家の外壁の白さは海風が運ぶ潮と車の排気ガスで、ところどころ黄ばんだり灰色掛かっていた。
「ただいま」
玄関の扉を開けると奥から
「入って来てちょうだい」
母の力無い声が聞こえた。
リビングのソファの背もたれに寄りかかった母は、髪はボサボサで何本かの白髪が飛び出して見える。目は落ち窪み口紅の色だけがやけに赤く、その表情にそぐわない別の生き物のようだった。泣く事にも疲れたのか、母は呆然とただ座っていた。
「この歳になって…まさか逆さを見るなんて思わなかったわ」
意味がよく分からない。
「珠姫が死ぬなんて、順序が逆じゃない?そうでしょう?康司?」
あぁ、そういう事か。
「そうだね、母さん」
母の隣に腰を降ろした。
「で、姉さんはどうして亡くなったの?病気が原因の突然死?事故?それとも…」
「亮一さんよ!亮一さんがあの娘を殺したのよ〜」
僕の一言が忘れようとしていた悲しみを蘇えらせた。また母は堰を切ったように泣き出した。
そんな事はある筈が無かった。分っている。
あの憎らしい程、完璧な紳士の義兄が殺人などを犯すはずがない。

「康司は何故、平気なのよ!たった一人の姉が死んで悲しくないの!!」
僕の胸を両方の拳で叩きながら、母が叫ぶ。
行き場を失くした母の悲しみは怒りに変わり、その矛先は僕に向けられた。
悲しくないわけが無い。僕が愛し続けた孤高の人が手の届かないまま、此の世から消えてしまったのだ。ただ実感が湧いて来なかった。心が悲しみにまで辿り着けなかった。
ドン!ドン!
力無い母の拳を受けながら
姉さんは自死したんだと確信していた。
ブルブル…
ズボンのポケットに押し込んだスマホが着信を告げた。
「母さん、ちょっとごめん」
幸子からだった。
「康司さん、こんな時に失礼かと思ったんだけど」
「いいよ、どうしたの?」
「お姉さんから宅配便が届いたの」
「えっ!」
「何かカラコロと音はするけど…他は書類のような物じゃないかしら?コンパクトだし…」
「開けてみて」
「嫌よ!お姉さんの最期の貴方へのメッセージかもしれないじゃない。そんなに大切な物、私が開けるなんて出来ないわ」
幸子は育ちが良い品のある女性だ。例え夫婦でも、僕宛の手紙や小包を開封する事は、今までにも決してなかった。
「ねぇ、日付も今日の夕方に指定されているの。どうしたら、いいかしら?そちらに私が届けましょうか?」
「いや、いいよ。そのままにしておいて」
母に今、そんな物を見せたら余計に感情が昂ってしまうだろう。

「誰なのよ?!こんな時に!」

ヒステリックに叫ぶ母をなだめながら、家に届いた姉からの宅配便の事だけを考えていた。(約2800字)


つづく





(あとがき)
私の作文の中で一番人気のない(って、そんなに無いんですけど)

の『麗奈ちゃん』をシリーズ化したくて書き始めました。
書き始めたら長くなっちゃって(苦笑)何時、麗奈ちゃんは出て来るのかしら?と筆者も分からなくなっております。ひょっとしたら出て来ないかも~(泣)ま、頑張って着地だけはさせます(笑)




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