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おれのほそ道(中)

2日目

松島海岸 ― 徒 歩  ― 松 島
松 島  ― 東北本線 ― 小牛田
小牛田  ― 東北本線 ― 一 関
一 関  ― 東北本線 ― 平 泉
平 泉  ― 東北本線 ― 一 関
一 関  ― 東北本線 ― 小牛田
小牛田  ― 陸羽東線 ― 鳴子温泉
鳴子温泉 ⇐ 徒 歩  ⇒ 尿前関跡
鳴子温泉 ― 陸羽東線 ― 新 庄
新 庄  ― 奥羽本線 ― 山 形
(泊)山形

2015年3月3日の行程

松島

 初日の夜は松島に泊まる。翌朝起きると、ホテルの窓からは松島が見える。さすが、日本三景。遠くまで来たものだ。

 ホテルで朝食をとったのち、芭蕉も訪れたという雄島にゆく。ここから見える海はとても静かで、あの大震災の日、ここが津波に襲われたということを思うと、何だか不思議な思いもする。東日本大震災が発生したのは、私の大学合格発表翌日のことであった。あれから、丸四年。時間も随分経った。

 物思いにふけったあと、私は瑞巌寺にお参りした。

平泉

 松島を後にし、平泉までは、田んぼばかりの東北本線の車窓。途中、小牛田駅で電車を乗り換える。

 平泉では、まず、高館義経堂を訪れる。ここは、かの源義経が最期を迎えた地であり、芭蕉がかの有名な「夏草や兵どもが夢の跡」の句を詠んだ地でもある。無常の地なのだ。しかし、その“無常”が数世紀の時を経た今でも感じられるというのは、ある意味皮肉ではないか。“無常”は移ろいやすさを説くが、“無常”を感じる心は移ろうことなく、芭蕉の元禄時代にあっても現代の平成時代にあっても変わらない。

 次に、中尊寺を訪れる。ここには『おくのほそ道』にまつわる資料やらを展示している小屋があって、そこのあばさんが教えてくれたギャグには、

小牛田駅「ここだ!」に聞こえ降りまちがえ

平泉を後にして、陸羽東線、別名「奥の細道湯けむりライン」という湯冷めしそうな名前の電車に乗るため、私は小牛田(こごた)駅に引き返したのであった。

尿前の関跡

 鳴子温泉駅に着いたのは、もう日も暮れようかという午後五時。降りた瞬間、温泉の匂いが鼻に、清廉な雪化粧が目につく。秘境の感じが妙である

 観光案内所を尋ねたところ、おばさん曰く、この季節は、まだ、尿前の関跡は見えないという。はて?意味がわからなかった。とりあえず、尿前の関(註:「しとまえ」と読む。マイナーな関所であるが、芭蕉は『おくのほそ道』の道中、ここでなぜか検問を受けていた。)にむかう。

雪の中尿前の関隠れてる

私は雪国の積雪をなめていた。

山形駅前

 この日は山形駅前のホテルに泊まることにした。夕飯を食べたあと、コンビ二でブルガリアヨーグルトと袋とじの雑誌を買って、ホテルでひとり楽しんだ。

3日目

山 形  ― 仙山線  ― 山 寺
山 寺  ⇐ 徒 歩  ⇒ 立石寺
山 寺  ― 仙山線  ― 羽前千歳
羽前千歳 ― 奥羽本線 ― 新 庄
新 庄  ― 陸羽西線 ― 古 口
古口港  ― 舟    ― 草薙港
草薙港  ― 徒歩と車 ― 藤 島
藤 島  ― 羽越本線 ― 酒 田
酒 田  ― 羽越本線 ― 象 潟
(泊)象潟

2015年3月4日の行程

立石寺

 朝一で、芭蕉が「閑かさや岩にしみ入る蝉の声」の句を詠んだ立石寺に登る。この立石寺は、山を切り開いて作った、愚行移山も顔負けなお寺で、その頂へは千段余りの階段を登らねばならない。

 季節柄、階段にはまだ雪が残っていて、閑かさやどころではない。夏の涼しさを楽しむどころか、階段に残る雪がとても滑りやすくって冷汗がたらたら流れる。

 私のほかにはたった一人、前橋から来たという観光客のおじさんがいて、互いに挨拶を交わした。こんな閑散期にここを訪れるとは、私も同類とはいえ、唖然とする。

 立石寺、駅名で言うと「山寺」は、『おくのほそ道』の旅程の“盲腸”にあたる。立石寺を後にした私は、この“盲腸”から抜け出すため、一路、新庄駅へと引き返し、陸羽西線、別名「奥の細道最上川ライン」に急いで駆け込んだのであった。

最上峡

 I’m going down the Mogami River ♪
 と、八代あきに全然似てない船頭さんが歌う舟唄が聴こえてくる。ここは、テムズ川でも、ハドソン川でもない。ここはジャパニーズトラディショナル三大急流、そう最上川である。何せ、世はグローバリゼーション、船頭さん曰く、海外からいらした観光客のため、江戸時代からこの最上地方に根付く舟歌とやらを英語ヴァージョンでも披露しなければならないのである。やれやれ、苦労の多い時代である。

 そうこうしているうちに、下流の船着場に到着。流石、ジャパニーズトラディショナル三大急流、「@」いう間の舟下り。(世はデジタル化の時代でもある)船着場から駅へはおよそ七キロ、外は小雨、徒歩で行こうと決心し、船着場の人に方角を尋ねるも、船着場の人、「徒歩とは正気か」と閉口される。(白河の関跡に続き、二度目)覚悟を決め、歩きだすも、そこは歩道なき国道、大型トラックの放つ水しぶきが私を容赦なく濡らす。

 すると、眼前に停まる一台の軽トラック。おじさんが現れ、鶴の一声、「乗ってくかい?」これが夢にまでみた、逆ヒッチハイクというやつである。ウキウキで軽トラックに乗り込む。私の横を流れる田園風景、よりもさらに気になってしまうのは、おじさんの田舎訛り。そして、何気ない雑談の中から滲み出るノスタルジー。訛りのせいで、何を言っているのかは皆目わからなかったが、やさしさは充分伝わったのであった。

4日目(2015年3月5日)

象 潟 ― 羽越本線 ― 酒 田
酒 田 ― 羽越本線 ― 村 上
村 上 ― 羽越本線 ― 新 潟
新 潟 ―快速くびき野― 直江津
直江津 ― 北陸本線 ― 富 山
富 山 ― 北陸本線 ― 金 沢
(泊)金沢

2015年3月5日の行程

象潟

 三日目の夜は象潟に泊まる。眠ろうとするも、ホテルの窓がガタガタガタガタうるさい。そう私は、雨が打ち付け、強風吹きすさぶ日本海側に来たのだ。ここの気象は、かのナウマンゾウの気性よりも激しいという。

 翌朝目覚めると、雨は小降りに収まっていたものの、風はいまだに強い。朝食を済ませ、まず生の日本海を一目見てみたいと思い立ち、海岸に出る。テトラポッドに打ちつけられる波しぶき。激しい。この波に呑まれたら身体が百個あっても足りない、と思う。

 次に蚶満寺にお参りする。道すがら、九十九島が見える。芭蕉が訪れた際、象潟は入り江だったのだが、文化元年の象潟地震で地面が隆起し、ここは陸地となった。今は、水田のあいだというあいだで地面がぽこっとなっていて、島の名残だとわかる。

 最後に、芭蕉も訪れたという能因島に向かおうとしていたところ、またもや逆ヒッチハイクを受ける。今度は、自称象潟観光ボランティアを仰せつかっているおばさんで、車で象潟周辺をぐるっと一周してくださった。曇っていて、鳥海山は見えなかったが、芭蕉の言うとおり、これまた一興である。

日本海

一句、

羽越線北陸本線長すぎる

私は圧倒的な退屈感に苛まれながら、汽車に揺られ、市振の関を通過し、いよいよ北陸は富山県に入った。さあ、私の旅も佳境に入ったのである。

(つづく)

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