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「心はつらいよ」が終わってつらいよ

 大変でい、大変でい。対象喪失でい。そう、週刊文春の連載「心はつらいよ」がついに終わってしまったのだ。これまで僕は、この世知辛い世の中を曲がりなりにも生き延びていくため、密かに、そして毎週のささやかな楽しみとして「心はつらいよ」をせっせと読み重ねてきた。しかし、ついにお別れのときがやってきたのだ。今、週刊文春を開いても、もう「心はつらいよ」は載っていない。

 そんな、僕の心にポッカリ穴を空けてくれた「心はつらいよ」であるが、著者はといえば臨床心理学者の東畑開人さんである。僕が初めて東畑さんのご著書に触れたのは『居るのはつらいよ―ケアとセラピーについての覚書』(医学書院、2019)だった。同書は、紀伊国屋じんぶん大賞2020も受賞している、言わずと知れた名著である。僕も、この「イルツラ」ですっかり東畑さんの魅力にとりつかれてしまった、おそらく大多数のうちの一人である。

 東畑さんのお書きになるものは何がいいのか?それは、僕なりの表現で言うと“官僚的なものへの抗議”である。では、その抗議されるべき“官僚的”なるものとは何か?それは、例えば、目標・計画・評価・改善といった、現代の社会システムの屋台骨となっているような考え方や価値観、のことである。それらは今や社会の隅々にまで浸透しており、役所や企業のみならず、私たち個々人の心にも良かれ悪しかれ、少なからざる影響を与えている。

 僕は、この“官僚的”なるものがキライだ。なぜなら、“官僚的”なものはあまりにも合理的だからである。それに反して、僕たちたちの心は、合理的であるためにはあまりにも“生身”だ。心は機械でもなければ、アルゴリズムで動くアプリケーションでもない。心を動かすには、小さじ一杯の余白というか、不合理さが必要なのだ。例えば、僕みたいなひねくれた人間は、電車の中で10分ほどぼうっとする時間がなければ、生きた心地がしない。いろいろあって現代日本社会という大海原で溺れかけ、息も絶え絶えな僕の心にとって、「心はつらいよ」という浮き輪に偶然出会えたことは、本当に僥倖だった。

 しかし、「心はつらいよ」に大海原の水を一滴残らず蒸発させる力があって、それで<めでたし、めでたし>、ハッピーエンドになるかというと、そういうわけでもない。“官僚的”なものは一方で、この高度に複雑化した現代社会を回していくために、なくてはならないものである。それは、社会の発展が必然的に要請したものであり、僕たちが便利さや快適さに対して支払うべきコストでもある。

 “官僚的”なるものは、何か邪悪な存在によって意図的に作り上げられたものでは決してない。だから、スパッと否定しきれるものでもない。要は、折り合いが大事なのだ。“官僚的”なものと“生身”なものとの間の折り合い。そのバランスというか塩梅が、東畑文学ではこれまた絶妙なのだ。

 また、もう一つ、東畑文学の大いなる魅力を挙げるとすれば、それは“ユーモア”である。今思い返しても、ぷっと笑ってしまう。紙のことを「カミさま」と崇め奉っていた回。中学受験前夜にお母さんが漁業の問題が出ると予言したにもかかわらず、それを無視して撃沈してしまったエピソード。そして、大学入試で試験監督を務めながらも、眠りこけそうになってしまう東畑さんの姿。実際に連載を読んでいない方には伝わりづらいかもしれないが、そのひとつひとつが、溺れかけた僕の心を掬って(救って)くれた。

 やはり、大切なことはユーモアをもって伝えられるべきだし、東畑文学はそのことを重々承知している。河合隼雄氏の「こころの処方箋」の中にもこういう一節があるではないか。
― 「マジメも休み休み言え」

 ところで、「心はつらいよ」の読後感は、どこか河合隼雄氏の「こころの処方箋」に似ている。(そういえば、河合隼雄氏の「こころの処方箋」も確か、何かの連載をまとめた本だったような…)「心はつらいよ」の中では、東畑さんが河合隼雄氏のことを師と仰いでいるような個所が所々見受けられるが、僕にとっては「心はつらいよ」こそが令和版「こころの処方箋」ともいうべき存在であった。(いや、これから社会に出る若い世代にとっては、「こころの処方箋」の方をむしろ、平成版「心はつらいよ」といってもいいのかもれない。「心はつらいよ」はそれに値するほどの大著だと思っている。)

 最近、東畑さんのTwitterをチェックしていたところ、ある朗報が目に飛び込んできた。なんと、「心はつらいよ」の連載が、近いうちに書籍化されるというのだ!「心はつらいよ」が終了して、さて、明日から何を心の支えにして生きていけばいいのだろう、と途方に暮れ、迷える子羊と化していた僕にとって、これはまさに福音である。マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネの次は、トウハタであった。復活の時は近い。それまでは、同じく文春の「原色美女図鑑」に慰めてもらう他あるまい。

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