2023春に聴いた「らくだ」のはなし。|むかし家今松師匠・五街道雲助師匠・柳家さん助師匠

【季節感ゼロ注意報】
〜ただいま過去のキロク掘り出し中です〜
感想が永遠に追いつかない・・・

今年の春は「らくだ」にもよく出会った。なぜか夏のイメージが強い噺だったのだけど。なんでだろ。ふぐの毒→食あたり、的な連想でもしたのかな?(それはちょっとどうなの)

個人的に「らくだ」はあまり趣味のいい噺と思えなくて。
演じ手さんのお力でもちろん笑いはするんだけど、努めて見えないふりをする必要がそこかしこに散らばっていて、それゆえか聴いた後にはちょっと疲れてしまう。わたしにとってはそんな噺だった。

ところがここしばらくの間、数人の演者さんの口演を聴き比べて、すこしずつ印象が変わってきたので、今日はそのことについてのメモ書き。

今回、今松師匠版、そしてその少し前に聴いたさん助師匠版によって、もう少し「黄金餅」なんかに近いような、社会の下層で生きる人々を描いているのかもしれないな、と思った次第。

とはいえ、雲助師匠版も加えておきたいので、言っとくけど、今日もめっちゃ長い。で、例の如く、中身はそんなにない。かくごしろ!


◉ むかし家今松師匠

「鼻つまみ者」同士、この世からひとときの雨宿り

今松師匠の「らくだ」の、風景の切り取り方にシビれる。今松師匠、ほんとうにシビれる。渋くてシビれる。渋いのにシビれる。
もうだめだ(すきです……!)。

まくらで「鼻つまみ者」という言葉について話されてから、「らくだ」へ。

印象的だったのは屑屋さんの独白で語られる、らくだのこと。
思い出と呼べるほど、大げさなことは何もない。ただ、雨よけに身を寄せた軒下で、偶然そこに居合わせたらくだの姿が、屑屋さんの目を通してぽろりと語られる。

雨宿りをしているあのとき。たぶん、らくだが"素"なんですよね。
振り続ける雨に遮断されて、世間の誰からも見られていないあのひととき、らくだには他人を押さえつけたり乱暴をはたらく必要がなかった。
そして、その"素"のテリトリーにいられたのは、同じく世間の「鼻つまみ者」でありながら、決して"同類"にはなりえない屑屋さんだったからではないのかな、と。

きっと、あの場にいたのがアニキや長屋の連中だったら、らくだは"いつものらくだ"でいなければならなかったのではないかな、とか思ってしまって。「嫌われ者」のらくだの人格そのものから離れ、なんだか「らくだ」が社会のマイノリティとしての象徴のように感じられて、見のがしてはいけないものを目撃したような、そんな心持ちになった。

らくだと屑屋さん、日常とは異なる一瞬の邂逅に「雨宿り」という場面を選ばれた今松師匠の演出の妙。「雨宿り」のなかに、勝手に二重表現を読みとって、心底シビれてしまった。
とかね、説明的に書いてしまうわたしがめちゃくちゃ野暮で、それはほんとごめんですけど。でもシビれちゃうでしょ。。。なにあのハードボイルド。。

\ い、今松師匠〜! /

って、感激するたび叫びたいし、そろそろ叫ばせてくれてもいいんじゃないですか(真顔)。

鈴本さんの7月中席ネタ出し興行にネットの海でめちゃくちゃ叫んだ
まだ叫びたりない

以前「芝浜」の記事で「今松師匠の視点の置き方って、虚構の世界にとどまらない気がする」というようなことを書いたんですけど。
少し時を経てみて感じることは、常にではないけれど、それでもやはり、落語の世界のすき間から、ふと現代社会にまで手を伸ばされているような、そんな印象を受けます。現代の個人の価値感覚に阿るのではなく、社会的な関係性へと目線を移される感じ。

落語の世界のすき間からふと望むその描写にドキリとさせられる。すでに知っているはずの噺も、今松師匠で出会うと見えるものが全くちがって、それが本当にたまらない。

2023 鑑賞記録
03/11 この人を聞きたい(第155回)今松ひとり会(その31)[NEW!]

◉ 五街道雲助師匠

何者も介入させない、揺るぎない古典落語の世界

今松師匠版とは裏腹に、下世話な噺すら、とことん陽気に聴かせきってしまう雲助師匠の「らくだ」。筋書きは同じなのに、ちがう噺のよう。

↑見よ!雲版「らくだ」直後のこのわたしのツイートを。

「名人」とか「至芸」とか、いかにもそれっぽい言葉をあまり軽々しく使いたくはないんだけど(ヒネクレ者だから)、雲助師匠の「らくだ」は、これを「名人芸」と言わずになんとする!と思ってしまう。

「イマの価値観的にちょっと〜」などと、こちゃこちゃ考えては難しい顔をしている、わたしのような現代人の頭上を悠々と飛び越えて、古典のあるがままを、圧倒的な芸のちからで魅せてしまう、うつわの大きさ。
(似たようなことをこの記事でもチラと書いてるのでよかったらどぞ。)

は〜。こっちもシビれる。いやもう、すきだなあ。

2023 鑑賞記録
05/13 オフィスマツバ 第10回 五街道雲助独演会

このnote、なんでだか今松師匠と雲助師匠の聴き比べが多くなってきた気がするな。もともとわたしが雲助師匠ファンだからというのはあるだろうけど、おなじ十代目馬生門下なのに、両師匠で見せてくださるものが全然違うから、自然、目を凝らしてみようとしてしまうのかもしれない。
どちらが良いとかじゃなくて、どちらも良くって。本当に、良くって。

そういう意味では雲助一門の御三方も芸風がてんでバラバラなのだけど、荷重ポイントが異なる感じが強いからなのか、今のところあまり比較しようとは思わないな。いや、Twitterではしてたりするか。どっちだい。


◉ 柳家さん助師匠

独自のアレンジと屑屋さんの裏の顔が興味深かったさん助師匠版

今松師匠の段でしれっと屑屋さんまで「鼻つまみ者」だと書いたのですが、わたしにとってその前提となったのが、少し前に出会ったさん助師匠版にあるように思う。
ますはTwitter感想の引用。

さん助師匠がこのときに演られた屑屋さんは、脅されていた弱者が酒の力でトラになるのではなく、すでにその素質、あるいは経験を持ち合わせていたかのように、地続きのまま屑屋さんの「ならず者」の部分が前面に出てきた。

思えば、わたしがこれまで落語の世界で出会った「屑屋さん」って、「井戸の茶碗」の清兵衛さんのような善人しかいなかったんですよね。貧しくても常に正直であろうとする「清貧」の象徴。

けれど廃品類を扱う以上、よくも悪くも他人様の家の台所事情にも通じるということで。当人の性根次第で、それを悪いことに転用しようと思えばいくらでもできてしまいそうだし、もしかしたら裏稼業を商っていた連中もあったかもしれない。

そんな風に想像してみると、他人の家のくず物を扱う「屑屋」に対して、少なからぬ職業差別はあったのではないか? と思ったりするわけです。
目に見える差別ではなかったとしても、長屋に暮らす同じような庶民階級の間柄であるからこそ、潜在的に、より下の相手を見下すような偏見は存在したのかな、と。今松師匠の「鼻つまみ者」同士の描き方に、いよいよ圧倒的な説得力が出てくる。

この辺り、完全にわたしの憶測でしかなくて、本当ならもう少し根拠を得てから書きたかったんだけど。それをやってたら季節がまた変わっちゃいそうなので、追々深めていきたいところ。おすすめの本があれば、ぜひ教えてください。

そうそう。同じくさん喬門下であるさん花さんの「らくだ」もとても良かったんだよね。
「死人のかんかんのう」が楽しくなってしまう屑屋さんがなかなかにクレイジーで。屑屋さんのエンターテイナーの芽生えに吹き出してしまう一方で、上記のツイートで書いた台詞など、強弱の関係性が流動的だとも感じさせられて思わずハッとしてしまった。

さん助師匠のこの日の「らくだ」は普段のかたちと異なるとのお話も耳にしたので、「らくだ」に限らず、もうちょっと色々聴いてみたいところです。

寄席で出会って興味を持った噺家さんのトリを聴きに、(ホール落語ではなく)寄席にもどってくるという、明李、はじめての回帰でもありました。
寄席への帰巣本能、目覚めさせていきたい(?)。

2023 鑑賞記録
02/26 鈴本演芸場二月下席 夜の部
 桃月庵ぼんぼり 道灌
 柳家小はぜ 人形買い
 ダーク広和
 柳家喬之助 芋俵
 林家きく麿 歯ンデレラ
 林家正楽
 三遊亭鬼丸 ぞろぞろ
 橘家圓太郎 蛙茶番
 ~
 鏡味仙志郎・仙成
 柳家小満ん あちたりこちたり
 柳家小菊
 柳家さん助 らくだ [NEW!]


もういくつか寝たら中席がやってくるぞ!(ギャース!!)

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