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安倍能成院長と山(「山桜通信」52号)

学習院大学山岳部 昭和29年卒 二宮洋太郎

何時の三木会(*1)の折であったか、安倍先生(*2)が北アルプスに登山された想い出を話された事があった。この登山は明治四十四年の夏のことであったから、話された時は既に四十五年以上も昔の事であったのに、実に詳細かつ正確で、驚きを禁じ得なかった事を覚えている。

当時の北アルプスは未だ登山の黎明期であった。『岩波茂雄(*3)伝』を書かれた先生の記述によれば『岩波と私とは田部重治(*4)や市河三喜(*5)、及び私の義兄藤村藎(*6)と、天幕を携え、信州大町を基点として高瀬川から烏帽子岳、野口五郎岳、赤牛岳、黒岳(水晶岳)から立山連峰を経て、ザラ峠や針の木峠を越えて再び大町へ帰った』。さらに『その時の我々は山登りの素人で、発案者の田部重治が赤牛岳、黒岳登山の記録を作る為に連れて行かれたようなものである』と述べておられる。

この山々、特に赤牛岳、黒岳(水晶岳)は、北アルプスの最奥の黒部川源流地帯にあって。殆ど人の入らぬ、遠く孤高の山々である。しかも険しく、寂しく豪快なこの天地は、何か先生に相通ずるものがあった。仁者は山を楽しむ(*7)と云うが、特にこの山々と先生はよく合うのではないかとその時ふと思われた。

先生と岩波茂雄氏は旅行をよくされていたようである。三木会の集会は、院長官舎や下落合のご自宅などでおこなわれるのが慣例であったが、春先などに三木会のメンバーと旅行されることも何年か続いた。

その三木会最初の旅行は、昭和三十四年四月二十六日、先生のほか約十名で大島へ旅行したとある。記憶も半ば模糊となったが、安倍能成先生、磯部忠正(*8)先生、石上太郎(*9)先生のほかは皆三十歳前後の若い人々であったように思う。故人となった石川貞昭(*10)、加瀬裕(*11)両君あたりが確か案内役を勤められた。安倍先生がしばしばご持参の五万分の一の地図と地形を見較べておられたが、先生は旅行には五万分の一の地図を何時も持参されたそうである。三原山の砂原では、例のかすかな微笑を温厚な顔に漂わせ、我々後輩を従えて悠々泰然と馬を進められた雄姿など、いろいろ想いだされる。

三木会は、昭和二十九年から先生ご逝去の昭和四十一年まで約十数年間続けられたが、この期間は学習院にとっても非常に重要で想い出深い時期であった。

学習院にとっては大学開設草創期の時であり、無から有を生ずるような大事業の基礎を培い発展させた時期であった。安倍先生の不退転の決意、献身がなかったら今日の学習院はなかったであろう。
私個人にとっては学校を出たばかりで社会の勉強と経験の時期であった。

その後先生がお亡くなりになられたあと、思いがけず私自身、桜友会や学習院で微力をいたす縁ができたが、思えばその際の意識の根底には往時の先生の学習院への愛情や献身のお姿がなかったとは言えないようである。それ以来、三木会創設の当初からは三十五年有余の春秋が過ぎ、学習院も大きく成長し、私自身も還暦を越え、人生のはても既に視野に入る日常となった。
鎌倉の円覚寺の山の中腹に小さな茶店がある。ここからは先生の眠っておられる東慶寺の山をすぐ間近に眺めることができる。折にふれてこの茶店を訪れ、相対する山に向う一刻が私の秘かなる楽しみである。そして『仁似山悦』(*12)という言葉を思い、やはり先生と山はよく似合うと思うのである。     (2017年11月17日逝去)
1988(昭和63)年記

(*1)三木会(さんぼくかい)
安倍能成先生が旧制一高卒業後に参加された一木会(旧制一高卒業生の会)を参考に、1954(昭和29)年から毎月第三木曜日に行われた会(安倍先生が1966(昭和41年)年にお亡くなりになられるまで続いた)。先生が、学習院を巣立ち世に出た卒業生を自宅に招き、会員に自由な議論をさせ、先生は脇で聞かれて、適宜感想を述べられた。山岳部関係者では二宮洋太郎・加瀬裕・石川貞昭・井ケ田文一・井ケ田傳一・右川清夫が参加していた。

(*2)安倍能成(あべ よししげ)
学習院元院長(昭和21年 - 昭和41年)、哲学者。

(*3)岩波茂雄(いわなみ しげお)
岩波書店創業者。安倍能成と一高・東京帝国大学時代からの親友。一高時代の英語教師が夏目漱石で、岩波茂雄が創業した岩波書店の最初の刊行物が夏目漱石の「こゝろ」(1914年)である。

(*4)田部重治(たなべ じゅうじ)
英文学者・登山家。安倍能成とは東京帝国大学時代からの親友。1919年(大正8年)に「日本アルプスと秩父」を出版。主に日本アルプス、秩父山地を登る。安倍能成の山の嗜好に大きな影響を与えた。

(*5)市河三喜(いちかわ さんき)
元東京大学教授、英文学者。安倍能成とは東京帝国大学時代からの親友。

(*6)藤村藎(ふじむら しん)
安倍能成の義兄。弟は、藤村操(ふじむら みさお)で、旧制一高在学中の1903年(明治36年)5月22日に華厳の滝で投身自殺した。自殺現場に残した遺書「巌頭之感(がんとうのかん)」によって、当時の旧制一高から東京帝国大学へ進学する者が社会のトップエリートであったのに自死を選択したことが、若者に大きな衝撃を与えた。
また、安倍能成と岩波茂雄と藤村操の一高時代の英語教師は夏目漱石であり、登場人物の夏目漱石からの影響は非常に大きい。

(*7)仁者は山を楽しむ
仁徳を身につけた人は山を楽しむ。

(*8)磯部忠正(いそべ ただまさ)
元学習院院長(昭和56年 - 昭和62年)、安倍先生と同じく東京帝国大学卒の哲学者。

(*9)石上太郎(いしがみ たろう)
学習院大学の元学生部長。1955(昭和30年)に、学生相談研究会(現:一般社団法人日本学生相談学会)の初代代表に就任。

(*10)石川貞昭(いしかわ さだあき)
1953(昭和28)年度、大学山岳部CL

(*11)加瀬裕(かせ ひろし)
1952(昭和27)年度、大学山岳部CL

(*12)『仁似山悦』
仁徳をもって、山を悦ぶ

安倍能成先生のこの登山については、「山桜特別号 學習院登山史(Ⅰ)1887-1953」の第Ⅳ章 山・人・言葉 ①だいらの小屋(P.304~309)(「山中雑記」 大正13年8月25日発行 岩波書店」)に1911(明治44)年の夏の山行の詳細が書かれている。(行程の詳細はP.94 1911(明治44)年に詳しい)百十余年を経て、現代の北アルプス登山と比較してみるのもとても興味深い。安倍先生は現在の光徳小屋を訪問し、「山静似太古」(やましずかなることたいこににたり)(*13)という書を残されている。(編集部)

(*13) 「山静似太古」(やましずかなることたいこににたり)
山を愛する安倍先生の書については、「山桜通信第26号 2006年10月発行」に熊野將の投稿が詳しい。原典は中国北宋(960-1127)の詩人「唐夷」(1071-1121)の詩「酔眠」の冒頭の一節
山静似太古 日長如小年
余花猶可酔 好鳥不妨眠
世味門常掩 時光蕈已便
夢中頻得句 拈筆又忘筌

大意は「酔って眠る」
「山は太古の昔のように静まりかえり、日はまるで小一年のようにゆっくりと過ぎる。
散り残った花は、まだ酒を飲みつつ楽しめるし、美しい鳥のさえずりは、眠りを妨げない。
つねに門を閉じ世俗との付き合いを絶っているうちに、季節は竹茣蓙を敷くような季節になってしまった。
夢の中でしばしば詩や句が出来上がるが目覚めて筆を執って書こうとすると、どう言い表したら良いのかわすれてしまった。」
東洋文庫「宋詩選注2」

現在の金属レリーフ「山静似太古」

この書よりつくった木製のレリーフがかつて二代目光徳小屋の入り口に飾られていた。この元版は散逸し、現在は金属製のレリーフが三代目光徳小屋(現在の小屋)入り口にある。「光徳小屋の宝物」と呼ばれているレリーフだ。山を愛し、学習院を愛した安倍先生が偲ばれるもので、光徳小屋へ訪問時にはご覧いただきたい。(編集部)

二宮洋太郎(にのみや ようたろう)
1926(昭和1)年生まれ.。1954(昭和29)年卒業。1958(昭和33)年に発起人としてRCCII(Rock Climbing Club II)を設立。1970(昭和45)年から学習院常務理事等を歴任。後に、パミール・中央アジア研究所設立。発起人から会長に就任した。2017(平成29)年没。

©日本山岳会「年鑑山岳2001年度号」
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