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日本の内ゲバは鎌倉幕府から

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日本の内ゲバ(仁義なき戦い)の発祥は鎌倉時代からと考えています。鎌倉時代全般を通じて、血で血を洗う権力闘争をまとめていきます。
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記事一覧

日本の内ゲバは鎌倉幕府から(16)-後鳥羽上皇の決意-

西暦1219年(承久元年)7月13日、京都で源頼茂が後鳥羽上皇に対して起こした謀反は、大内裏の主…

日本の内ゲバは鎌倉幕府から(15)-後鳥羽上皇変心-

西暦1219年(承久元年)7月19日、京から左大臣・九条道家の子、三寅(みとら)が鎌倉に下向さ…

日本の内ゲバは鎌倉幕府から(14)-尼将軍誕生-

西暦1219年(建保七年)1月27日、鎌倉幕府三代将軍・源実朝は、鎌倉幕府二代将軍・源頼家の子…

日本の内ゲバは鎌倉幕府から(13)-将軍暗殺-

西暦1213年(建暦三年)5月に起きた和田合戦以来、小さないざこざはありましたが、大きな騒乱…

日本の内ゲバは鎌倉幕府から(12)-執権誕生-

西暦1213年(建暦三年)5月2日から3日かけて鎌倉を舞台に繰り広げられた和田義盛の反乱(和田…

日本の内ゲバは鎌倉幕府から(11)-和田合戦その2-

西暦1213年(建暦三年)5月2日、申の刻(午後4時)、鎌倉幕府侍所別当(長官)の和田義盛は…

日本の内ゲバは鎌倉幕府から(10)-和田合戦その1-

西暦1213年(建暦三年)5月2日、昼下がり、鎌倉はにわかに騒がしくなりました。 和田義盛邸近くに八田知重という御家人がいました。八田知重の父は八田知家といい、鎌倉幕府「十三人の合議制」のメンバーの一人で、幕府の重鎮の一人でした。その子にあたる知重は後に「小田氏」を名乗り、常陸(茨城)の国衆・小田氏の祖になる人物です。 その知重は隣から何やら大きな物音が続くので「何をやってるんだろう」と隣の和田義盛邸を見てみると、続々と兵が義盛邸に入っていく状況でした。 「これは、おか

日本の内ゲバは鎌倉幕府から(9)-臨戦体制-

泉親衡の乱の後始末のゴタゴタは、北条義時により和田義盛への牽制に利用され、和田義盛の甥・…

日本の内ゲバは鎌倉幕府から(8)-波乱の前兆-

西暦1213年(建暦三年)2月、信濃国小県郡小泉荘(長野県上田市小泉)を本拠とする御家人・泉…

日本の内ゲバは鎌倉幕府から(7)-義時の陰謀-

西暦1205年(元久二年)閏7月、鎌倉幕府政所別当・北条時政は、継室・牧の方と共謀し、鎌倉殿…

日本の内ゲバは鎌倉幕府から(6)-時政の失脚と畠山氏の再興-

西暦1205年(元久二年)7月、尼御台・北条政子の裁量により、先月起きた畠山重忠の乱で功績の…

日本の内ゲバは鎌倉幕府から(5)-義時の疑念-

西暦1205年(元久二年)6月22日午後、鎌倉幕府の創業期を支えた忠臣・畠山重忠は、鎌倉より出…

日本の内ゲバは鎌倉幕府から(4)-畠山重忠の乱-

時は前回のお話しよりちょっとだけ戻ります。鎌倉幕府二代将軍・源頼家が伊豆の修善寺で亡くな…

日本の内ゲバは鎌倉幕府から(3)-比企能員の変は北条時政のクーデター-

第3回でございます。 過去第1回と第2回をまだお読みいただいていない方はこちら(↓)から さて、前回は、鎌倉幕府の内ゲバ第1回である「梶原景時の変」を取り上げました。そこで私が非常に疑問と申し上げたのは「梶原景時に本当に謀反の可能性があったのか」でした。 景時は 「御家人の中には鎌倉殿を廃して、御舎弟殿(千幡/後の実朝)を次期将軍におつけしようと企む者がおります」 と将軍頼家に言上しています。この内容は讒言であったため、彼は鎌倉を追放されるわけですが、なぜ、彼はこのよ