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日本の内ゲバは鎌倉幕府から(3)-比企能員の変は北条時政のクーデター-

第3回でございます。
過去第1回と第2回をまだお読みいただいていない方はこちら(↓)から

さて、前回は、鎌倉幕府の内ゲバ第1回である「梶原景時の変」を取り上げました。そこで私が非常に疑問と申し上げたのは「梶原景時に本当に謀反の可能性があったのか」でした。

景時は

「御家人の中には鎌倉殿を廃して、御舎弟殿(千幡/後の実朝)を次期将軍におつけしようと企む者がおります」

と将軍頼家に言上しています。この内容は讒言であったため、彼は鎌倉を追放されるわけですが、なぜ、彼はこのようなことを言ったのかが謎なわけです。

景時がこのように言上するには、それなりの理由があったと考えるのが筋でしょう。

阿野全成の粛清

前回も書きましたが、鎌倉幕府初代将軍の源頼朝と、二代将軍の源頼家では、それを支える御家人勢力が違いました。頼朝には北条時政頼家には比企能員がついていました。それぞれの妻の父がこの二人です。

頼朝は頼家が生まれた時、能員を乳母父(養育係)に指名しました。これは頼朝の乳母が能員の養母である比企尼が関係しています。頼朝の決定ですので、時政も文句が言えませんでした。

西暦1198年(建久九年)、頼家が比企能員の娘に手をつけ、嫡男・一幡(後の鎌倉幕府二代将軍・源頼家)が生まれたため、娘は頼家の妻(若狭局)になりました。

このあたりから、時政は「このままでは北条家は権力の中枢から遠ざけられるのではないか」と危機感を持ち始めたと思われます。

だが、頼朝が息災である以上、北条氏の外戚の地位は揺るがないと考え、「頼家が成人するまではまだ時間がある」と思っていたのでしょうが、その翌年(1199年<建久十年>)、頼朝が急死してしまったため、時政の目論見は崩れました。

頼家が源氏の家督を継ぎ、二代目鎌倉殿となります。
しかし若干まだ17歳。政務の経験値もない状態で、鎌倉殿としての裁決を求められる状況は、頼家にとって重圧だったと思われます。

時政および幕府の宿老たちは、この状況を利用し、頼家が裁決するのに必要な情報の整理と事前に必要な議論を行う評定システム「十三人の合議制」を作りました。

これは、時政にとって、頼家とその後見役である比企氏の権力に一定の制限をかけるという効果を副次的に生み出しました。

その上で、頼家の腹心の一人である梶原景時の排斥もやってのけます。

実はこの時、時政は、嫡男・義時と共に頼家を廃して頼朝三男・千幡を鎌倉殿に据える計画を密かに立てていたと考えられます。

千幡は乳母が阿波局(政子の妹/阿野全成の妻)で、その身は北条氏の勢力下置かれていたからです。つまり梶原景時が頼家に言上したと言われることは根も葉もない噂ではなかったのです。

西暦1202年(建仁二年)7月22日、源頼家は、朝廷より従二位に昇叙征夷大将軍の宣下を受け、正式に鎌倉幕府二代将軍となり、半年後の翌年1月には正二位に昇叙しました。

時政の前述の「千幡擁立計画」が現実味を帯びてきたのはこの頃です。頼家は1203年(建仁三年)の3月に頼家は体調を崩していて、すぐに持ち直すものの、同年7月は重病に陥ります。このことと無関係ではないと考えています。

時政はこの計画を実行に移すには、梶原景時の変に習って、多くの御家人の支持が必須だと考え、大義名分として源氏の血統に連なる阿野全成をこの計画に引き込みます。

阿野全成は頼朝の異母弟の一人で、義経の同母兄に当たります。この時の全成は、時政の娘・阿波局を妻としており、阿波局は千幡の乳母でした。全成は千幡にも北条氏に近い存在でした。

しかし、この計画は形を変えて「阿野全成の謀反」という形で頼家の耳に入ります。

1203年(建仁三年)5月19日、頼家は武田信光(甲斐源氏)に命じて、全成を謀反の罪で逮捕し、御所に監禁しました。この時、頼家は阿波局も謀反に加担したとして同じく逮捕しようとしましたが、姉の政子が断固拒否して事なきを得ています。

5月25日、全成は常陸国に流罪となりましたが、翌月6月23日、頼家の命令で常陸守護の八田知家の手により殺害されました。これにより、頼朝の弟は全て死亡したことになります。

この時、時政や義時、そして神輿として担がれた千幡には追捕の手が回っていないことから、頼家の目的は、最初から自分の叔父にあたる阿野全成の粛清にあり、その結果、北条氏に対して無言の圧力をかけたのではないかと推察されます。

北条時政のクーデター計画

西暦1203年(建仁三年)7月20日、頼家は訪問していた中原(大江)広元の屋敷で病にかかり、8月25日には危篤状態に陥りました。3月以降体調を崩していましたが、公務の無理がたたったのでしょうか。

『吾妻鏡』によれば、同年8月27日、頼家は主だった御家人を御所に集め、家督を関東二十八ヶ国を嫡男・一幡に、関西三十八ヶ国を弟・千幡に分割して相続させると発表します。

これは、将軍外戚権力が比企と北条の二分されることを意味すると共に、かつて時政が立てていた「千幡擁立計画」が根底から崩れることを意味しました。

また、当時の西日本の多くの所領は、いまだ朝廷の勢力下にあるところが多く、東国と違って鎌倉幕府の支配権が及んでいないところもありました。

時政は千幡の後見役として北条氏としてこれを承服することはできませんでした。
また、一幡の後見役である能員も「本来は嫡子である一幡がすべてを相続すべき」と考えてこれには不満をあらわにしました。

「これ以上、比企氏の勢力を大きくするわけにはいかない」

時政は彼はこの状況を利用して恐ろしい謀略を仕掛けます。

まず、9月1日頃、京都の朝廷に向けて

「9月1日に頼家公が亡くなり、嫡男一幡も死んだので、頼家公の弟・千幡が後を継ぎました。よって千幡に征夷大将軍を補任してください」

という文書を出しています。

もちろん、この時、頼家は危篤ではありますが、まだ生きています。嫡男の一幡も同じです。にも関わらず、頼家を死亡したことにして、頼家弟の千幡に鎌倉殿を継がせようと画策したのです。

これをクーデターと言わずしてなんなのでしょう。

この時、頼家が死んでいたら、比企一族が頼家の子・一幡を後継に擁立するのは明白でした。それを阻止するため、時政は事前に手を打ったのです。

当然、比企が納得しないことも時政はわかっていたと思われます。

つまり、時政が朝廷に送った要請について、朝廷から返書が来るまでの間に、比企一族ならびに一幡を滅ぼすつもりだったと思われます。

比企能員の変

『吾妻鏡』によれば、時政が朝廷に前述の文書を送った翌日、すなわち同年9月2日、時政は比企能員に対して「仏事の相談があるので、私の屋敷まで来ていただきたい」と会合の申し入れを行いました。

ここでいう仏事が何を指すのかがよくわかりませんが、頼家薨去の際の段取りをしておきたいということかもしれません。

呼び出しを受けた能員は、数名の供を連れ、平服で時政の屋敷(名越邸)を訪れました。門を通って屋敷に入ったところ、突如、天野遠景、仁田忠常の両名によって両脇を取り押さえられ、引き倒されたところを殺害されたのです。

この時、比企一族の者たちは能員に「北条の屋敷に無防備で行くなどあり得ない」と武装するように言ったらしいのですが、能員は「武装すれば臆病風に吹かれたと笑われる」とそれを制止、平服で出向いたそうです。

能員の従者も何人か斬られましたが、生き残った者が比企の屋敷に「能員殺害」を伝えると、比企一族は武装して小御所(将軍の後嗣が生活する住居)に立て篭りました。

時政は、「比企能員に謀反の疑いあり」とし、能員を謀殺した後、比企一族が小御所に立て篭もったことを口実に「謀反の証拠」としました。その上で、自分の娘である尼御台・政子の名前で「比企一族を誅殺せよ」との命令を発布しました。

この時の政子は亡き頼朝の未亡人であり、その存在と発言力は亡き梶原景時(侍所別当)、中原(大江)広元(政所別当)、三善康信(問注所執事)が認めており、加えて将軍である頼家が21歳という若さであることから、将軍後見役としてのポジションを持っていたと思われます。

この時、比企攻めに加わった御家人は、北条義時、泰時(義時嫡男)、平賀朝雅(時政の娘婿)ら北条一門に加え、和田義盛、三浦義村、小山朝政、畠山重忠、工藤行光、加藤景廉など鎌倉幕府創設の功臣たちも加わっていました。これだけの御家人を動員できたのは、政子の命令に寄るところが大きいでしょう。

この戦いで能員の嫡男・余一郎兵衛尉、三郎宗員、四郎時員らは全員討死。小御所は炎上して燃え尽きてしまいます。その最中、頼家の妻である若狭局と嫡男・一幡は行方不明となってしまいました。

これを「比企能員の変」と言います。
鎌倉幕府第二の内ゲバです。

頼家の復活

当初の計画通り比企能員および比企一族を滅亡させた時政にとって、あとは将軍である頼家が病のまま亡くなってくれれば御の字でした。

頼家の弟・千幡に将軍職を継がせ、自身は将軍の外戚としてのポジションを確立させ、クーデターは完全に成功するはずでした。

若狭局や一幡は行方不明でしたが、二人とも屋敷炎上による焼死扱いにしてその存在を抹消させていました。

ところが、ここで時政の計算を狂わせることが起きます。

同年9月5日、危篤状態だった頼家が回復してしまったのです。

「やべぇ....どうしよう.....」

時政の慌てふためく姿が見えるようです。
頼家は回復後、妻や一幡との面会を望みますが、比企能員が時政に殺害され、妻や子も含め比企一族が滅亡したことを聞かされ、愕然とします。

そして、頼家がとった行動は「時政追討」でした。
当然と言えば当然ですね。自分の子供と妻と妻の実家を勝手に滅ぼされたんですから。

頼家は堀親家(頼朝時代からの将軍の側近)を使者として、和田義盛仁田忠常「時政追討」を命じる御教書(三位以上の人間が発給する命令書)を出しました。

和田義盛は侍所別当(御家人統括機関の責任者)であり、御家人を指揮監督する立場なので、将軍命令により御家人を使って時政を討てとの意味でしょう。もう一人の仁田忠常の場合は、義父・比企能員を殺害したうちの一人ですので、汚名返上の機会を与えたというところでしょうか。

頼家の不幸は和田義盛と時政の関係が、頼家の想像以上のものであったことに尽きます。

和田義盛はその御教書を受領した後、その日のうちに時政の元に届けました。それを知った時政は将軍の使者であった掘親家を殺害します。

忠常は御教書を受領した翌日、時政から能員殺害の恩賞の件で呼び出されていました。しかし、忠常の帰りが遅いことで忠常の弟等が「もしかして討ち取られてしまったのでは?」と邪推していまい、屋敷に立て篭もる準備を始めてしまいました。

これが「武装蜂起しようとしている」と謀反の疑いをかけられ、やはり殺害されました。

これによって、頼家の「時政追討」は完全に無力化されました。

時政にとって、頼家の病が癒えて将軍として復活したことは大誤算でした。今回は和田義盛、仁田忠常の2名に御教書が発せられ、義盛のタレコミのおかげで未然に防ぐことができましたが、今後、頼家から他の御家人に同じような御教書が出ないとも限りません。

「なんとかして頼家公の行動に制限をかけることはできないものか....」

時政は焦っていました。
朝廷に出した「千幡への将軍就任奏請」はすでに京都に着いたあたりで、返書が戻ってくるのがあと5日ぐらいだと考えると、グズグズしてはおられませんでした。

万策尽きた時政は、頼家がまだ病が重かった8月27日に発表した隠居を強行することを思いつきます。

ただ、状況が当時とは違っているため、頼家が反抗することは明らかでした。その反抗を押し戻すには、頼家の母である尼御台・政子の力を借りざる得なかったのです。

政子は頼家と面会し、頼家が出した時政追討は実行されなかったことを伝えると、頼家自身が太刀を抜いて「では私自らが時政をブッ殺す!」と立ち上がったものの、めまいを起こし、その場に倒れてしまいます。

「その状態で将軍として御家人を束ね、鎌倉の治政を行うのは不可能じゃ。そなたはまだ病が完全には癒えていない。今しばしの療養が必要ぞ」

と諭された頼家は、北条一族の手によって同年9月7日、伊豆国修善寺( 静岡県伊豆市修善寺)に幽閉されてしまったのです。

将軍実朝と頼家暗殺

同月10日、時政は千幡を自分の屋敷(名越邸)に入れ、一時的にその身を保護すると、数日後には政子の元に引き取られました。これには時政とその妻・牧の方が結託して幕府権力を乗っ取ろうと画策していたの知った阿波局が、姉・政子と共に阻止するためという逸話が残っています。

同月15日、後鳥羽上皇より千幡に「実朝」の諱、従五位下への昇叙、そして征夷大将軍の補任の通達が届きます。

16日、時政は実朝の名前で「関東下文」を下し、将軍が代わっても御家人の所領を安堵する通達を行いました。

そして、翌月10月8日、千幡は元服し「源実朝」を名乗ります。

翌日、時政は政所別当(幕府行政機関の責任者)の職に就任しました。すでに政所別当は頼朝の御世より、中原(大江)広元が務めていましたが、この時より別当職を複数制にして、時政が併任された形になっています。

ただ、広元はこの年に朝廷の大膳大夫の職を辞し、また3年後の西暦1206年(建永元年)には政所別当職も辞して、幕府内の役職から退いていることから、時政を後継の政所別当にする引き継ぎを兼ねていたのかもしれません。

いずれにしても、この時、将軍である実朝は12歳です。そんな少年にこんなことができるわけがありません。それに幕府の役職を持たない時政が合法的に権力を執行できるようにするためには、政所別当のポジションが必要だったと思われます。

また、同日、時政の娘婿の平賀朝雅京都守護(六波羅探題の前身)に補任され、京都に赴任しています。将軍代替わり(特に二代と三代の間の突然の代替わり)によって京都に不穏な動きが起きないように、自分の信頼できる一族の者を遣わすあたり、時政の優れた政治手腕を見ることができます。

翌月11月、行方不明だった頼家の妻・若狭局と嫡男・一幡が発見・逮捕されますが、時政嫡男・義時の手によって闇に葬られています。

慌ただしい建久三年が過ぎ、年が開けて翌1204年(元久元年)7月18日、前将軍・源頼家は伊豆修善寺で死亡します。

将軍交代のクーデターやその後の体制構築が終わり、世の中が安定したタイミングを見計らって、時政の手によって暗殺されたと言われます。21歳でした。

北条時政のクーデターはここに完成したのです。

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