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ドラマで語られなかった三日平氏の乱とその後のアレコレ

2022年5月15日、NHK大河ドラマ『鎌倉殿の13人』第19回「果たせぬ凱旋」が放送されました。

前々回第18回「壇ノ浦で舞った男」で平家を滅ぼし、宗盛を鎌倉に護送したものの、鎌倉には入れず、京に戻らざるをえなかった義経が、さらに転落の人生に落ちていく話でした。

「義経」を説明する重要な話は、一ノ谷、屋島、壇ノ浦の3つだと思います。
今日はそのうちの「一ノ谷の合戦」に関する話と、ドラマでは全く描かれなかった「三日平氏の乱」の話をしたいと思います。

一ノ谷の合戦

記録上、義経の活躍の最初は、1184年(寿永三年)1月20日義仲との戦い(宇治川の戦い/粟津の戦い)です。

宇治川の戦いは当初500騎から1,000騎と言われていた義経軍が、範頼の援軍と合わせて25,000騎であることが判明し、義仲軍が1,000騎に満たなかったため、戦いの勝敗はやる前からわかっていたようなものでした。

敗れた義仲は近江粟津(滋賀県大津市)に逃れ、北陸に撤退して再起をしようと図りますが、一条忠頼(甲斐源氏・武田信義の嫡男)の軍勢と戦闘になり、そこで討死します。

そしてこの6日後、範頼、義経らは後白河法皇の平家追討の命を受けて出陣し、2月5日、一ノ谷の合戦に臨むわけです。

なお、『吾妻鏡』によると一ノ谷の合戦に参加した御家人は次のとおりです。

本隊:総大将:蒲冠者範頼(源範頼/頼朝弟)
小山朝政(下野小山氏二代当主)
武田有義(甲斐源氏・武田信義の四男)
板垣兼信(甲斐源氏・武田信義の三男)
下河辺行平(下野小山氏庶流)
長沼宗政(下野小山氏庶流/長沼氏・皆川氏の祖)
千葉常胤(房総平氏棟梁/下総千葉氏三代当主)
佐貫成綱(藤姓足利氏庶流)
畠山重忠(秩父氏棟梁/武蔵畠山氏二代当主)
稲毛重成(秩父氏庶流/畠山重忠の従兄弟)
稲毛重朝(重成弟)
稲毛行重(重成弟)
梶原景時(鎌倉氏庶流/相模梶原氏四代当主/侍所所司)
梶原景季(景時嫡男)
梶原景高(景時次男)
相馬師常(千葉常胤次男/陸奥相馬氏の祖)
国分胤通(千葉常胤五男)
東 胤頼(千葉常胤六男)
中条家長(八田知家の養子)
海老名太郎(海老名季久?)
小野寺道綱(山内首藤庶流/下野小野寺氏二代当主)
曽我祐信(千葉氏庶流)
庄司忠家(武蔵国児玉党)
庄司弘方(忠家弟)
塩谷惟広(喜連川塩谷氏初代当主)
庄 家長(武蔵国児玉党棟梁/庄司忠家、弘方の兄)
秩父行綱(武蔵国児玉党)
安保実光(武蔵国丹党)
中村時経(武蔵国丹党)
河原高直(武蔵国私市党)
河原忠家(高直弟)
小代行平(武蔵国児玉党支流)
久下重光(武蔵国私市党支流)
以上56,000騎

搦手:総大将:源九郎義経(頼朝弟)
安田義定(甲斐源氏・武田信義弟)
平賀惟義(河内源氏義光流/平賀氏の祖)
山名義範(河内源氏義国流/山名氏の祖)
中原親能(斎院次官/文官)
田代信綱(伊豆国守・藤原為綱の子)
大河戸広行(三浦氏庶流)
土肥実平(相模土肥氏初代当主)
三浦義連(三浦義澄の弟)
糟屋有季(相模糟屋氏二代当主)
平山季重(武蔵国西党)
平佐古為重(相模蘆名氏の祖)
熊谷直実(武蔵国熊谷郷の住人)
熊谷直家(直実嫡男)
小河祐義(駿河国湯舟郷の住人)
山田重澄(清和源氏満政流山田氏)
原 清益(伊豆工藤氏庶流)
猪俣則綱(武蔵国猪俣党)
以上20,000騎

『吾妻鏡』巻之三寿永三年甲辰

上記の通りであるなら、梶原景時畠山重忠も範頼にくっついていますので、ドラマで描かれていたような義経の鵯越に参加してるはずがないですね。

ただ、この兵力の数だけは検証の余地があります。

なお、一ノ谷の合戦は多くの平家一門の主要人物が討死しています。
検証の余地はありますが、なくなった平家一門の方々は次のとおりです。

平 通盛(清盛異母弟・平教盛の嫡男)
平 忠度(清盛の異母弟/歌人として有名)
平 経俊(清盛異母弟・平経盛の三男)
平 清房(清盛の八男)
平 清貞(大外記・中原師元の子で清盛の養子)
平 敦盛(清盛異母弟・平経盛の末子/能・幸若舞『敦盛』のモデル)
平 知章(清盛四男・知盛の嫡男)
平 業盛(清盛異母弟・平教盛の三男)
平 盛俊(清盛側近・平盛国の子)
平 経正(清盛異母弟・平経盛の嫡男/歌人)
平 師盛(清盛長男・重盛の五男)
平 教経(清盛異母弟・平教盛の次男/壇ノ浦での死亡説あり)

そしてこの戦いでの最大の戦果は、清盛五男であり正三位左近衛権中将(通称:三位中将)だった平重衡が捕らえられたことです。平家一門で清盛に連なる人間が捕まったりするのはこれが初めてです。

後白河法皇はこの重衡の身と平家が持ち去った三種の神器の交換を持ちかけています(結局、破談になりますが)。

なお、この時の戦果は3日後の8日はもう京に伝えられていました。『玉葉』にはこうあります。

二月八日、式部権少輔(藤原範季)が言うところによれば、この夜半ばかりに、梶原景時からの飛脚によれば「平氏皆悉く伐ち取りました」と。

その後午の刻(昼頃)に、定能卿(藤原定能)がやってきて、合戦の子細を語った。一番に九郎(義経)より「義経は搦手で、先ず丹波城(三草山)を落として、次いで一ノ谷を落としました」と。次に蒲冠者より「大手軍を率いて、浜地より福原を攻めました」と。

合戦としては辰の刻より巳の刻(午前8時から午前10時までの2時間)に至るまで、2時間もかからず、あっけなく攻め落とされたようだ。

多田行綱が山手の平家の布陣を落としたらしい。平家は上陸できぬ人もおり、乗船の人々四五十艘ばかりいたらしいが、火を放ち焼死してしまったようだ。しかし、討ち取った者の名前はいまだわからず。劔璽・内侍所(三種の神器)の安否もいまだわからない。

『玉葉』寿永三年二月八日

三日平氏の乱

一ノ谷の戦いの後、範頼は鎌倉に戻り、義経は京に残ります。
この頃より義経は頼朝の代官としての機能を果たすようになります。

また同年3月に平賀惟義が伊賀守護に任じられ、九条家の荘園である同国大内荘の管理を命じられました(これより平賀惟義は大内惟義になります)。

これが、伊賀に潜伏していた伊勢平氏の残存勢力を刺激し、平家の家人であった平田家継が7月7日が挙兵し、さらに伊勢では平信兼(桓武平氏大掾氏)が挙兵し、三日平氏の乱が勃発します。

これにぶったまげたのが院の皆様です。

七月八日甲午晴 
聞くところによれば、伊賀・伊勢の国人らが謀叛を起こしたらしい。伊賀の国は、大内の冠者(平賀惟義)が治めている。従って家人を国中に居住させている。

たが、昨日辰の刻(午前8時)、家継法師(平家の家人で、平田入道ともいう)が大将軍として、大内の家人を次々と殺害したそうだ。また伊勢では、信兼(平信兼/和泉守)が鈴鹿山を切り塞いてやはり挙兵した。

この事が原因で因って院の中は大騒ぎだ。

『玉葉』元暦元年七月八日

上記の『玉葉』にあるように、突然の武力蜂起に惟義の郎党は対応できず、多くの家人を討死させました。

しかし、同月19日にはほぼ鎮圧させています。しかし、ここでドラマに出てきた、あの首をヒョコヒョコさせて何を言っているのかよくわからん好々爺だった佐々木秀義(演:康すおん)が討死してしまうのです。

佐々木秀義(演:康すおん)
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8月2日、頼朝は三日平氏の乱の中心人物で逃亡した平信兼の捜索を京にいた義経に命じています。

この時、義経にはすでに平家追討の目的で西国へ出陣する命令が下されていました。しかし、この乱の対応するため、西国への出陣は範頼が務めることになります。

そして、8月6日、義経は後白河法皇によって左衛門少尉・検非違使に任じられました。

義経の検非違使任官は問題だったのか?

私の小中高時代は、頼朝と義経の確執は、この義経の左衛門少尉・検非違使任官が発端だと教わりました。

しかし、この任官の翌月(すなわち元暦元年9月)、義経は頼朝の命令で河越重頼の娘(郷御前)と結婚しています。

河越重頼は武蔵国(現在の東京都・埼玉県の一部)で最大の軍事統率力を持つ御家人で、妻は比企尼(頼朝の乳母)の次女です。家柄や血統を考えても順当な婚儀だと思います。

もし本当に検非違使任官が問題なら、この婚儀も破綻しているはずです。
なので、この行動だけ見ると、義経の検非違使任官は、義経が頼朝の代官として機能するためには必要不可欠なものだったのではないかと考えています。

一方、西国に出陣した範頼ですが、瀬戸内海はいまだに平家の勢力下にあり、兵糧の調達に大変な苦労をしていました。

しかし、それも1185年(元暦二年)1月26日、豊後国大野郡(大分県豊後大野市)に勢力を持つ緒方惟栄が源氏への協力を申し出、軍船を繰り出したことで戦力を整えることができました。

この結果、九州へ上陸を果たして、筑前、豊後に源氏の橋頭堡を築くことに成功します。この頃、頼朝は範頼に対し「九州の武士とうまくやれ」と現地の武士の調略(?)とも気遣いとも言える書状を出しています。

で、これらを見るに、頼朝は範頼にこのまま平家追討を完遂することを望んでいた節があります。

しかし、この頃、京の義経は怪しい動きをしています。

吉田経房の日記『吉記』の元暦二年1月6日の条には、義経を四国に遣わすべきという意見が院の中で出ているような記述があります。

義経自身が京を離れられないため、郎党を遣わすのではないかという話がでていたようです。しかし三日平氏の乱の首謀者の一人でもある伊藤忠清が京に潜伏しているという話もある中で、容易に判断できるものではなかったようです。

いずれにしてもこの後、1月10日の『吉記』には

大夫判官義経、西国に出発するとのこと

と書かれているので、義経の西国行きは院の命令によるものかと。

私は頼朝と義経の確執はここが最初ではないかと思っています。
頼朝が範頼に九州攻略を命じたのは、九州に拠点を作り、平家の勢力圏を瀬戸内海に閉じ込める目的があったと考えられます。

で、範頼はそれを成功させました。
その頼朝の戦略には最初から義経は入っていなかったのではないかと。

義経が院の命令で出陣したことで、初めて義経が頼朝の命令違反をしたのではないかと。

このあたりはもう少し考察が必要だとは思いますが……

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