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奥州合戦に至るまでの鎌倉VS朝廷の戦い

2022年5月29日、NHK大河ドラマ『鎌倉殿の13人』第27話「仏の眼差し」が放送されました。

それは源頼朝(演:大泉洋)の鎌倉政権が奥州藤原氏を滅ぼした「奥州合戦」が描かれた回でしたが、そのために割かれた時間は、アバンタイトル明けの5分13秒あたりから10分18秒のわずか5分間程度でした。

ドラマで描かれたのは

・奥州藤原氏が財を溜め込んでいたこと
・泰衡が家人である河田次郎に討たれたこと
・河田次郎が頼朝から不忠を咎められ、斬首されたこと

この3点のみです。

さすがにこれは陸奥・出羽両国に大勢力を築いた奥州藤原氏の最後にしてはあまりにも呆気なさすぎるので、義経の一件から鎌倉と朝廷のやりとりも含めて、できる限り詳細にここに綴っていきたいと思います。

奥州藤原氏の成立と栄華

かつて陸奥国には奥六郡(胆沢、江刺、和賀、紫波、稗貫、岩手=北は現在の岩手県盛岡市、南は同県奥州市あたり)という地域を実効支配していた安倍氏という豪族がいました。

また出羽国には仙北三郡(山本、平鹿、雄勝)という地域を実効支配していた清原氏という豪族がいました。

安倍氏と清原氏はこの地の原住民族の末裔であり「俘囚(ふしゅう)」と呼ばれていました。

11世紀中頃、安倍氏は朝廷への貢物の納付義務を怠り、朝廷と戦争状態になりました。当時の陸奥守・藤原登任は戦争に負けて更迭され、次の陸奥守に源頼義(頼朝の五代前の河内源氏棟梁)が赴任しました。

頼義の陸奥守任期切れ間近、安倍氏当主・安倍頼時の嫡男・貞任が頼義の家人を襲撃した事件(阿久利川事件)が起き、両者は再び戦争状態に突入します。

頼義の部下で、在庁官人として多賀城に出仕していた亘理の領主・藤原経清は頼時の娘と結婚していた為、頼義を裏切って安倍氏に味方します。

戦いは終始安倍氏側が優勢に進めていましたが、出羽の清原氏が頼義に味方すると形勢は逆転し、ついに安倍氏は1062年(康平五年)9月17日、厨川柵(盛岡市前九年町および天昌寺町一帯?)に追い詰められて滅亡しました。これを前九年の役といいます。

藤原経清の妻が清原氏庶流(のちに嫡流)・清原武貞と再婚したことから、経清の息子も清原氏に保護され、清原一族の一人として育てられます。成人後、彼は清原清衡(きよはらのきよひら)と名乗ります。

清原武貞死後、後を継いだ真衡は、海道平氏の平成衡を養子とし、頼義の娘と結婚させることで清原氏嫡流の家格を上げようと企みましたが、これに清原一族が反対します。反対勢力は清衡ならびに清衡の異父弟である清原家衡を担ぎ出し、真衡との間に抗争を勃発させました。これを後三年の役といいます。

この内部抗争に陸奥守として赴任した源義家(頼義の子/八幡太郎)も巻き込まれ、真衡の急死によって一旦は収束するものの、今度は清衡、家衡の間で戦争が勃発。家衡が敗北し、1087年(寛治元年)、清衡が最後の勝利者となりました。

奥六郡、仙北三郡の支配者となった清衡は、朝廷の許可を得て実父・藤原経清の藤原姓を名乗ることを許され、藤原清衡(ふじわらのきよひら)となります。これこそが奥州藤原氏初代・藤原清衡です。

清衡は朝廷への貢物を欠かさず、摂関家との繋がりも良好で、1094年(寛治八年)前後に陸奥押領使(陸奥国の軍事指揮権者)に任じられています。

清衡没後、後を継いだ二代目の藤原基衡(ふじわらのもとひら)は陸奥だけでなく、出羽の押領使も兼任し、その勢力を確たるものにした上で、陸奥守として赴任した藤原基成の娘を嫡男・秀衡と結婚させました。
また、基衡の時代は、奥羽における多くの摂関家の荘園を管理していたことが明らかになっています。

三代目の藤原秀衡(ふじわらのひでひら/演:田中泯)は父同様、陸奥、出羽の押領使だけでなく、1170年(嘉応二年)鎮守府将軍に任ぜられ、1181年(養和四年)にはさらに陸奥守に任じられています。

秀衡の時代が、奥州藤原氏の栄華のピークだったと思われます。

奥州藤原氏は朝廷への貢物を欠かさないことで朝廷と敵対することはなく、摂関家の荘園を管理することでその信頼を得て、着実に奥羽両国内に国力を培っていました。なおかつ十三湊(青森県五所川原市)を中心とした海外貿易を独自でおこなっており、その財力は目を見張るものがありました。

頼朝の圧力

1185年(元暦二年)、源範頼(演:迫田孝也)、義経(演:菅田将暉)によって平家が滅亡すると、頼朝の最大の敵は奥州藤原氏のみになりました。

頼朝は東国の御家人を束ね、東国の平家勢力を駆逐し、源義仲の手から京を奪還し、さらに平家を滅亡させるに至るまでかなりの軍事力と資金を投下していました。

また奥州は鎌倉の北方に位置していたため、頼朝が西に軍事活動を起こせば、後ろから攻撃されるリスクが生じていました。そのため、奥州藤原氏をいかにして屈服させるのかが平家滅亡後の頼朝の課題でした。

まず頼朝は藤原秀衡に対し「秀衡の朝廷への献上物は今後いったん鎌倉で預かり、鎌倉から京へ送るからそのようにしてくれ」という要請をおこなっています。

これは頼朝から秀衡への牽制初球ではないかと考えています。
秀衡は鎌倉殿の御家人ではありません。また奥州藤原氏は朝廷の臣であり、頼朝の鎌倉政権も朝廷の臣であります。つまり頼朝と秀衡は同格ということです。

その同格の頼朝が、秀衡の貢物を一旦自分が預かるというのは、相当に無礼な話だと思います。

その秀衡からの返書が同年4月24日に鎌倉に届いたという記録が『吾妻鏡』にあります。

4月24日、陸奥守藤原秀衡からの返事が到着しました。「朝廷へ納める馬と砂金については(鎌倉殿の言う通り)まず鎌倉へお送りすることにしますので、京都への輸送をよろしく」と、書かれていました。

これは、鎌倉殿が秀衡に手紙を出した返書です。鎌倉殿は

「御館(秀衡)は奥州六郡の領主。私(頼朝)は、東海道の行政執行官。お互いに仲良くしなければならないのだが、距離が離れているため、意思疎通が思うようになりません。とはいえ、京都へ献上する馬や砂金は、行政執行官として「私が管理すべき土地からの朝廷への献上品」として管理しなければなりません。なので、今年から、まず私に送付してください。これは、朝廷からの命令を守るためです」

と書いて送ったそうです。宛名は奥州の御舘(秀衡)宛だったとのこと。

『吾妻鏡』文治二年丙午

これを見ると、秀衡の方はあまり気にしていなかったのか、それともそれが頼朝の朝廷への面子であるなら、顔を立ててやろうという心意気なのか、正直なところはわかりません。

義経の所在判明

西暦1189年(文治四年)、義経の所在が奥州であることが判明します。下記は時の右大臣・九条兼実の日記『玉葉』の記述です。

ある人は言った、昨年の9月、10月の頃、義顕(義経)の姿が奥州にあった。秀衡はこれを隠していた。

10月29日、秀衡が亡くなった時、兄弟(庶長子・国衡、嫡男・泰衡)の和の証として国衡に秀衡の妻を娶せる。各人これに異議は許さぬとして、誓詞を書かせた。また、義顕(義経)にも同じ誓詞を書かせた。

義顕(義経)を以って主君とし、国衡、泰衡の両名はこれに仕えよと遺言した。よって三人一体となって、頼朝を襲撃する策を巡らすとのこと。

『玉葉』文治四年1月9日

そして2月8日、朝廷に激震が走ります。

朝廷が出羽国に送った遣いの者(僧侶)を義経が軍兵を用いて攻撃してきたのこと。使いの僧侶は鎌倉に逃げて保護されたとのこと。

これで頼朝は義経が奥州にいる確信を得たのです。

これを受けて院は追討宣旨を出すか出さぬかで大騒動なわけですが、一条能保(頼朝の妹婿)の下記の発言でとりあえずは落ち着いたようです。

昨晩、刑部丞成経(小野成経?)が上洛した。頼朝はこのように言ったと言う。

「義顕(義経)が奥州に在る事すでに事実でしょう。但し、頼朝は今、亡母の供養のため五重の塔婆を造営しています。また、今年は重厄ですので殺生を禁断していました。よって朝廷からの追討使を承ると雖も、それが私の宿意を遂ぐべきと雖も、今年に於いては一切、追討行動を取ることはできません。

ただし、義経の軍兵等の来襲の場合は話が別です。そんなことを考えることすらしたくない。よって朝廷より直で秀平(秀衡)法師の子息(国衡、泰衡)に命じて、義顕(義経)を捕らえさせることが良いかと。噂によれば(秀衡の)子息等と義顕は同じ考えだと聞こえてきています。これは、その真偽を見る絶好の機会かと」

『玉葉』文治四年2月13日

これを受けて、18日、国衡(演:平山 祐介)泰衡(演:山本浩司)に対し、義経追討の院宣が下されることが決定。26日に発給手続がとられたと記録されています。

藤原国衡(秀衡庶長子/演:平山祐介)
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藤原泰衡(秀衡嫡男/演:山本浩司)
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3月22日、天皇家の使者2名が奥州に向かい、4月9日、鎌倉に逗留(世話人は畠山義忠【演:中川大志】小山田重成)。この時、頼朝が朝廷からの命令書を非公式に見たと『吾妻鏡』にあります。全部載せると長いので要約します。

義経は叛逆を企てて朝廷の法に背いた。

義経は身の置き所が無くなり、奥州平泉へ逃げていった。

義経はすでに無効となった朝廷の命令書(頼朝追討の宣旨)を掲げて、地方勢力を味方にして、戦いを始めようと望んでいる。

前民部少輔藤原基成(泰衡の祖父)と藤原秀衡法師の息子の泰衡は、義経に加担し、朝廷の命に反して、陸奥・出羽両国を占領し、朝廷の役人を追放している。

もし、泰衡達に義経に同意する気持が無いのなら、義経の身柄を捕まえて差し出しこと。そして荘園や役人を受け入れることだ。それでもなお朝廷の命令を聞かなければ、官軍を派遣して一緒に征伐するぞ。

『吾妻鏡』文治四年戊申

これとは別に後白河院の院宣もありますが、内容が重複するのでカットします。

ちなみにこれとほぼ同じ内容のものが10月そして12月にも奥州に送られています。つまり、この4月の宣旨と院宣を、基成と泰衡は黙殺したと考えられます。

ただ、12月の使者の時はちょっと様子が違ったようで、「義経の隠れ場所が判明したので、近々捕縛して突き出します」と泰衡が言ったことが『吾妻鏡』に書かれています。

しかし、頼朝は

どうも泰衡は何を考えているのかわからん。心底義経に同心しているからこそ、先日より届けられている朝廷の命令書を無視して突き出さなかったはずだ。それを今更、命令に従いますと書いているが、たぶん一時凌ぎのウソに違いない。信用することはできないよ。

『吾妻鏡』文治五年己酉

この頃になると頼朝は泰衡を全く信用していないことがわかります。

義経の死と奥州合戦に至るまでの経緯

頼朝の要求は「義経捕縛」でしたが、いつの頃からか「泰衡追討」にかわっていきます。1189年(文治五年)閏4月21日には、朝廷に対してクレーム入れている頼朝の姿が見えます。

藤原泰衡が義顕(義経)をかくまっているのを、朝廷は穏便に寛容な対処、すなわち内々に処理するつもりなのですか?、前々からの私がお願いしている通り「サッサと泰衡を討伐しろ」と朝廷の命令書を出してくれればそれで良いのです。(鶴岡八幡宮の)三重塔の完成供養の後には、実行したいので、そこのところ、ひとつよろしく。

『吾妻鏡』文治五年己酉

しかし、この9日後の閏4月30日、泰衡は義経を襲撃し、義経を討ち取りました。そしてその知らせが鎌倉に届いたのは5月22日の夕刻でした。その日のうちに頼朝は後白河院に手紙を書いて京に遣いをだしているようです。

京都に義経討死の知らせが届いたのは5月29日あたりかと思われます。

今日、能保(一条能保)が言ってきた「九郎(義経)が泰衡によって誅滅せられた。天下の悦びとはまさにこのこと。神仏の助けの賜物だ。加えて頼朝卿の運の強きことでもある。言葉にするまでもないことだが」

『玉葉』文治五年五月二十九日

さらにこれは自分は初めて知ったのですが、義経が亡くなったことを知った頼朝は義経の喪に服していたようです。

6月8日、京へ送った使いが戻ってきて、吉田経房(権大納言/『吉記』の作者)の手紙が届けられました。そこにはこのように書かれてありました。

院は(後白河法皇)は、義経が滅ぼされたことを、特に喜んでおられたとのこと。義経の滅亡で騒がしい国中が静まるであろうと。となれば、(武士は)弓を袋にしまって戦いはもう止めなさいと、内々におっしゃられていると。

『吾妻鏡』文治五年己酉

しかし、頼朝はすでに奥州征伐を計画していました。6月24日、泰衡に義経隠匿の罪を着せ、これを鎌倉への叛逆行為であるとして、千葉常胤(演:岡本信人)に軍旗を製作するように申し付けています。

また、夜になり、京の一条能保から手紙が届きます。これは頼朝が求めていた泰衡追討への回答でした。

奥州討伐の件では、朝廷では何度も議題に出して審議にかけています。頼朝が泰衡を討ちたいのはわかるけど、放っておくこともできない。しかし、もう既に義経は殺されてしまっている(いまさら奥州討ってなんの意味がある?)。今年は伊勢神宮の式年遷宮や大仏殿の再興工事もある。だから、奥州討伐の事はもう少し延期するようにと、関白殿下は御教書をしたためるとのことです。

『吾妻鏡』文治五年己酉

翌日、頼朝はこの申状を受け入れることはできないので、再度追討要請を出しています。

6月26日、奥州で合戦があり、泰衡が忠衡(秀衡三男)を討ったそうです。忠衡は義経の支持者だったので、朝廷の命令通りに行動したという理由でした。

そしてこれ以後、『吾妻鏡』は奥州征伐の準備のみに専念しています。
6月27日、和田義盛(演:横田栄司)梶原景時(演:中村獅童)を奉行として御家人招集の命令を発令しています。

しかし、以前として朝廷からの返書はありませんでした。

6月30日、頼朝は大庭景義(大庭景親の兄)を御所に呼び出し、朝廷の対応について相談しています。

鎌倉殿は

「この征伐について、朝廷に伺っているのだが、未だに朝廷の許しが出ない。しかし、すぐに許しが出るものと思って御家人を招集してしまったので、ちょっと困っている。何か良い考えは無いか?」

と申されました。大庭景能(景義)は

「戦闘中においては武士は将軍の命令を聞き、遠く離れている主上(天皇)のお言葉は聞かないといわれます。すでに朝廷へは申し上げているのならば、その返事を待つ必要は無いでしょう。また、泰衡は先祖代々の御家人の跡(奥州藤原氏の棟梁の意味?)を継いでいるにすぎません。朝廷からの許しがなくても、鎌倉殿が部下に罰を加えるのに何の遠慮がいりましょうか。鎌倉殿の命令で集まっている軍兵が無用の日を費やすのは、かえって士気が削がれます。早く出陣すべきです」

と答えましたので、鎌倉殿より褒められ、御所の厩から馬〔鞍付き〕が与えられました。

『吾妻鏡』文治五年己酉

ここで景義は「泰衡は先祖代々御家人の跡取り」と言いました。
前述した通り、奥州藤原氏は朝廷の臣であり、鎌倉政権の臣ではありません。なのでここでの景義の進言は事実ではないですが、そのように取り計らっても支障はあるまいという考えなのかもしれません。

景義の進言があってもなお、頼朝は宣旨を求め、7月12日、伝令を京に送っています。その返事が16日にもたらされました。

「泰衡を征伐せよとの朝廷からの宣旨(命令書)については、九条兼実らの公卿達が何度も検討をしていました。しかし義経の行方が顕かになった今、なおもこの上(奥州を)征伐することは、世間にとっては一大事になるのは必定。今年は止めておくように」

『吾妻鏡』文治五年己酉

頼朝はこの返答を聞いてまたブチギレます(汗)。

「御家人等を招集し、時間もカネも費やしているのに、今更、来年にできるわけねーだろが!!」

自分で勝手に御家人を招集しといてこの言い分はないと思いますが(汗)。

これで頼朝はもう朝廷は無視し、大庭景義の言う通り「部下の御家人を成敗しにきく」というスタンスで出兵を決定します。

戦闘計画立案

1189年(文治五年)7月17日、奥州征伐への具体的な計画が練られ始めます。まず、鎌倉軍は軍隊を以下の3つに分けました。

1、東海道方面軍(常陸→陸奥磐城→陸奥阿武隈へと進軍)
総大将:千葉常胤、八田知家(演:市原隼人)
2、北陸道方面軍(上野→越後→出羽へと進軍)
総大将:比企能員(演:佐藤二朗)、宇佐美実政
3、本軍(鎌倉→下野→陸奥)
総大将:源頼朝
先陣:畠山重忠

7月18日、北陸道方面軍が先行出発。
7月19日、頼朝の本軍が奥州征伐に出陣しました。本軍総勢1000騎。
合戦の経緯は別のエントリーで書きたいと思います。

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