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日本の内ゲバは鎌倉幕府から(7)-義時の陰謀-

西暦1205年(元久二年)閏7月、鎌倉幕府政所別当・北条時政は、継室・牧の方と共謀し、鎌倉殿である三代将軍・源実朝を殺害し、娘婿で源氏門葉筆頭である平賀朝雅を将軍に就けようと企みました。

しかし、その企みは尼御台・北条政子とその弟・北条義時によって阻まれ、失脚し、伊豆に隠居することになります。

時政失脚後、義時は政所執事に就任し、幕政を預かるキーマンの一人となりました。義時は父・時政が政所別当職にあった際に、それまでの慣例を無視する横暴な振る舞いを但し、政所下文には複数人の署名を必須とし、また鎌倉殿より与えられた御家人の所領は「大罪を犯さない限り没収しない」という方針を明示しました。

この時の幕府は、

尼御台・北条政子
政所別当・大江広元
侍所別当・和田義盛
政所執事・北条義時
問注所執事・三善康信
有力御家人・安達景盛(頼朝流人時代の側近・安達盛長の子)

らの合議によって動かされていたようです。

しかし、西暦1206年(建永元年)大江広元が政所別当職を辞したため、政所執事職であった義時が政所別当職に就いたと考えられます。義時は父・時政と同じポジションを世襲したことになります。

ここで大事なことは大江広元は政所別当を辞したとはいえ、一切の公務から外れたわけではないということです。当時の広元の官位は「従四位下」であり、それは上記の鎌倉幕府首脳陣の中では最高位(三善康信は五位蔵人、北条義時は従五位下)だったため、貴人として遇されたと考えられます。

将軍親政の開始

時は流れ、西暦1209年(承元三年)4月、将軍実朝は従三位に昇叙しました。このため自らの政所(家政機関)を開設することが可能になり、実朝は将軍親政を開始します。翌5月には実朝は右近衛中将にも任官しました。

この頃の実朝の将軍権力を示すものとして、同年11月14日、義時が実朝に上申した願いを却下したことが挙げられます。

この時、義時は自分に長く仕えてきた郎従(つまり北条家の私的な家臣)たちを「御家人」に準ずる待遇を与えてほしいと実朝に上申しました。

御家人とは、将軍と主従関係を結んだ侍のことであり、その関係は「御恩」「奉公」で成立します。将軍権力が御家人の所領を安堵するのを「御恩」、将軍が命ずることを履行する責任を追うのが「奉公」です。

義時が言っている郎従は、義時と主従関係を結んでおり、将軍から見れば陪臣(家臣の家臣)になります。義時は自分の家臣になれば、いずれ御家人に準ずる扱いをうけることができるという「特別扱い」を将軍に要求してきたわけです。

しかし、実朝はこれを

「それを許してしまえば、そのような者たちの子孫の時代になった際、事の経緯を忘れて、勘違いして幕政に参加しようとしかねない。後々、そういう問題を招く原因となる。よって、今もそして今後も絶対に許すべきではない」

と厳しくはねつけました。
子供の頃より面倒を見てもらっていた義時の願いをこのような強い態度で跳ねつける姿勢は以前の実朝には見られなかったもののようです。

家格問題

義時は、なぜこのようなお願いを実朝にしたのか。実ははっきりとはわかりませんが、この頃から、義時は北条氏の家格を上げようとしていたのではないかと私は考えています。

北条氏は伊豆国の小さな小領主だったのを、時政の娘・政子が源頼朝に嫁いだことから、頼朝の親類(外戚)となり、頼朝をバックアップして幕府創設から盛り立ててきました。しかし、それは頼朝の舅であった時政だからこそ成立していたわけで、子の義時はその時政の家督を受け継いで政所別当職のポジションに座っているにすぎません。

今は頼朝未亡人である政子が将軍の後見役(尼御台)として一定の権力を保持し、そのため義時も一定の権威を持っていますが、これ以後、幕府の中で一定の影響力を持ち続けるには、北条氏の家格を高め、通常の御家人とは違う別格な地位に押し上げる必要性を考えていたと思われます。

義時の父・時政は、幕府創設の功臣である比企能員(比企氏/二代将軍頼家の舅)、畠山重忠(畠山氏/武蔵国総検校職/秩父平氏筆頭)らを謀略を用いて陥れ、その勢力を排除することで北条氏の家格を高めてきました。義時が政所別当についたこの時において、北条氏のより一層の家格向上の障害となる存在は、侍所別当の和田義盛率いる和田氏でした。

和田氏は、相模の三浦氏の傍流ではありますが、当主である和田義盛は、主家である三浦氏当主・三浦義澄と共に頼朝の偉業を支え、幕府創設の功臣でした。頼朝は義盛を初代侍所別当に任じ、御家人の統括・警察権を委任すると共に、御家人からの信頼も厚かったと言われています。

鎌倉幕府は

侍所(御家人の統括・警察権の行使)
政所(幕府の政務全般、財政管理)
問注所(訴訟・裁判事務)


上記の役所で構成されており、この時点で北条氏と和田氏の家格は同格でした。それゆえに、義時はより一層の家格向上を目指すには和田氏が障害になるだろうと予想していたと考えられます。

義盛の義時への挑戦

義時が和田一族を排除する絶好の機会は、西暦1213年(建暦三年)2月にやってきました。

信濃源氏・源満快流の末裔で信濃国小県郡小泉荘(長野県上田市小泉)を本拠とする御家人・泉親衡が、第二代鎌倉殿(源頼家)の遺児を主君として立てて、北条義時を討伐する計画を立てていました

この計画は泉親衡の家人が千葉成胤(千葉常胤の孫)に相談したことから、義時の知れるところとなり、親衡は頼家の遺児と共に逃亡しますが、この計画に同心する武士は300人近くいたため、単なる親衡の企てとは義時には思えませんでした。

調査の結果、計画には和田一族である和田義直(義盛四男)、和田義重(義盛五男)、和田胤長(義盛甥)らが加担してことが発覚し、それぞれ義時の手の者に捕らえられて監禁されました。

これが発覚した当時、和田氏当主である和田義盛は本拠地の上総に居て、鎌倉を留守にしていました。義盛が事態を聞き、鎌倉に戻って状況を把握すると3月8日、将軍・実朝の御所に出向き、一族の者の赦免を願い出ました。

実朝は義盛の長年の勲功に免じてその訴えを認め、独断で義直と義重の釈放を命じました。しかし、甥の胤長だけは、義時が「首謀者の一人」であることを主張しその時は、釈放がかないませんでした。

翌日、義盛は一族98人を率いて再び将軍御所に押しかけ、将軍御所の南面に座り込み、甥・胤長の赦免を願い出ます。形上は将軍への請願ですが、これは胤長を首謀者の一人と断じた義時への挑戦でもありました。

この時、和田義盛63歳。北条義時50歳。義時がまだヒヨッコだった時、義盛はすでに一軍の将でした。その義時が政所別当の職権を以って裁いたことを義盛は覆そうとしていたのです。これは義時にとって受け入れられる請願ではありませんでした。

しかし、義時は

(この状況は利用できそうだ.....)

と考えるのです。


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