日本の内ゲバは鎌倉幕府から(16)-後鳥羽上皇の決意-

西暦1219年(承久元年)7月13日、京都で源頼茂後鳥羽上皇に対して起こした謀反は、大内裏の主要な御殿と重代の宝物を焼き払いました。

後鳥羽上皇はあまりのショックにその後1ヶ月ほど寝込むことになります。

しかし焼失した大内裏は院や朝廷の威厳のためにも再建が必至になります。ここで上皇は持ち前の精神力と胆力で乗り切ろうとします。

後鳥羽の精神力尽きる

その焼失の3ヶ月後、上皇は大内裏再建の動きを開始し、建設費を賄うため一国単位で一律の臨時課税を徴収することを決めました。しかし一方的な院の決定に日本各地の皇族領、荘園領主などは当然のように反発の姿勢を表します。

これはいきなりの増税に対する反発もさることながら、過去の経緯や有力貴族などの口利きで特別免除の特権が与えられている皇族領、寺社領、荘園などもある一方、これに対してまともに課税される荘園、武家領などが不満を言い始めたのです。

これに加え、同年11月27日、六勝寺の一部である延勝寺(現在の京都市勧業館敷地西端から東大路通の西端付近)、成勝寺(京都市勧業館の敷地)、最勝寺(現在の岡崎グラウンド西側から京都会館までの間にあった一町四方)らが火災で焼失。さらに放火で検非違使庁も焼失する火事がおきています。

そして不思議なことに同じ頃(同年11月)、鎌倉でも大風が発生し、北条時房の屋敷が吹き飛んでいます。

これらの失火、放火で御所の施設がさらに焼けたことは、税の徴収への抵抗がさらに強まる原因となっていました。

思うように税が徴収できない現実を痛感した上皇ではありますが、大内裏の再建は諦めませんでした。その流れは以下の通りです。

西暦1219年(承久元年)10月 後鳥羽上皇、大内裏再建の院宣発給
西暦1220年(承久二年)  1月 造内裏行事所(建設事務所) 発足
             3月 造内裏木作始(起工)
           10月 立柱(内裏の中心となる柱)上棟
           12月 檜皮葺始め
 

坂井孝一著「承久の乱」(中公新書)

この流れも決して順調には進みませんでした。
この期間、京において前述を上回る火事が多発したのです。

西暦1220年(承久二年) 
3月26日 清水寺(本堂、釈迦堂、塔)焼失
4月13日 祇園社(八坂神社?/本殿、東面廊、南大門、薬師堂)焼失
4月19日 吉水坊(安養寺)焼失
4月27日 大内裏陽明門、左近衛府、左兵衛府焼失

坂井孝一著「承久の乱」(中公新書)

これだけの天災が多発する中、大内裏造営を行おうとする上皇に対し、国司、荘園領主の不満がどんどん溜まっていったと思われます。

そして上皇は檜皮葺始めの後、ほどなくして造内裏行事所を解散させました。大内裏造営を事実上止めてしまうのです。

ここで上皇の中で何かがポッキリ折れたのだと思います。

幕府への不満

上皇は臨時課税が国司や荘園領主から反発を受けることは認識していたと思います。ではなぜそれを行なったのか、それは幕府の協力に期待していたところがあったのではないかと考えています。

そもそも大内裏が焼け、宝物が消失したのは在京御家人である源頼茂が原因です。そして頼茂が反乱を起こしたのは「実朝暗殺による将軍後継」に自分が蚊帳の外に置かれたことが原因。となると、大内裏焼失はぶっちゃけ幕府のせいなんですよね。

となると、上皇としては幕府が各地の地頭職などに「大内裏再建に協力しろ」と文書通達でも出して協力するのが筋と考えてもおかしくはないのに、協力する気がない。特に義時の知行国では徴収拒否という態度だったようです。

先の牧氏事件の時の騒動。そして実朝の暗殺からの摂家将軍の認定。そして源頼茂の謀反による大内裏焼失。さらに大内裏再建に関する各地の国司、荘園領主、地頭の反発。

上皇は「治天の君」であり、この世の最高権力者です。その最高権力者がこうまでストレスを溜め込むようなことが連続で起こっては、キレてもおかしくはないと思いました。しかも原因はすべて鎌倉幕府に起因していました。

上皇、ストレス臨界へ

鎌倉幕府三代将軍・源実朝が生きていた頃は、上皇と実朝の関係は決して悪くなかったと思われます。「実朝」の名前は上皇が決めたもの。実朝の正室・坊門信子は、上皇の外叔父・坊門信清の娘。実朝の官位の昇進も異例のスピードで、目のかけ具合も相当なものだと考えられます。

それは上皇が実朝を東国政権の主として認めていた表れであり、実朝の後継に自分の子供(親王)を下す約定をしていることからも明らかでしょう。

ところがその実朝は暗殺され、幕府から親王下向を求められましたが、自分の子供の命の危険を感じた上皇は約定を拒否し、代わりに人身最高の血統である摂家より頼朝と縁のある三寅(後の藤原頼経)を下向させました。

上皇から見れば、実朝暗殺は将軍警護の問題であり、それを取り仕切っているのは幕府政所、侍所を統括する執権・すなわち北条義時の責任であると見ていました。その義時が将軍暗殺の責任もとることなく、親王を下向させろということは上皇には受け入れられにくいことだったと思われます。

そして大内裏造営までに続く数々の問題に上皇は鬱屈してしまいます。
そんな上皇に卿二位(兼子/上皇の乳母)はこう言います。

「であれば、木を切るには元を断たねば、繁栄はありませぬ。義時を討ち、日本国を思うまま治めなされ」

私が中高生の時代、後鳥羽上皇が起こした「承久の乱」は、幕府を倒して武家を滅し、公家中心の世を作るためと教わりました。

しかし近年は研究が進み、上皇を取り巻く数々の事件によるストレスと、最高権力者なのに大内裏造営すら意のままにならない不満、そしてその矛先は幕府を掌握している執権・義時に対する不満として表れていました。

上皇が「承久の乱」を起こした原因がまさにここにあると考えています。

先の卿二位の言葉に従えば、上皇は幕府を滅ぼしたり倒したりする野心はなく、むしろ義時をはじめとする執権北条氏を取り除くことが目的だったと考えるのが道理かと。

次期鎌倉将軍として摂家より鎌倉に下向させた三寅は上皇の命令で下向しています。幕府を倒すことは「上皇自らが命じた将軍を廃する」ことを意味します。それは道理にあいません。

上皇は北条氏を廃して、三寅を自ら養育し、成人後は三寅を鎌倉幕府四代将軍に就け、幕府を東国政権として朝廷の指揮下に置くことを願っていたのだと思います。

そのために、幕府より北条氏を排除する行動を決意したのです。

幕府、安定へ

朝廷および上皇周辺で様々なことが起きている間、鎌倉でも一悶着起きていました。以前のエントリーでも書きましたが西暦1220年(承久二年)4月15日、鎌倉幕府二代将軍・源頼家の遺児・禅暁が誅殺されています。

これで、頼朝の直系血族はすべて粛清されたことになります。

そして同年12月1日、三寅の「着袴の儀」が行われ、翌日、小山朝政が上洛し、朝廷に報告しています。この報告は幕府内部における三寅体制の確立の報告と同じ意味を持っていました。

奇しくもこの月、後鳥羽上皇は大内裏造営の造内裏行事所を解散させています。

来るべき内乱に備えて、機が熟しつつあったのです。


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