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25年越しに綴るミュウツーの逆襲 感想 「ニャースと見るミュウツーの逆襲」




はじめに

感想内に種を残すことが生物の目的という観点が登場しますが、
あくまで人間以外の生き物における生物学的観点からの
考えであり、子孫を残せない/残さない選択をされてる方への非難、誹謗中の意図は全く御座いませんことを
ご理解頂けますと幸いです。

Ⅰ.ミュウツーとアイツーの邂逅

「ミュウツーの逆襲」を現在鑑賞しようと思うと
追加シーンが挿入された完全版と呼ばれるバージョンが一般的となる。
そこには
幼体のミュウツーと、人間のコピー思念体アイツーの会話シーン等
劇場公開時にはなかったものが盛り込まれているのだ。

ここの台詞が伏線として抜群に効いていて
2週目に見ると既に「ありがとうニャース!」と涙が止まらない。
皆様も、どうかこの感想を最後までお付き合い頂いた上で
このシーン、この作品を振り返ってミュウツーとニャースへの思いを馳せてほしい。

さて、追加シーンでは
ミュウツーとアイツーの出会いと別れが描かれ、
その際のアイツーの言葉
「生き物は体が痛い時以外は涙を流さないって、悲しみで涙を流すのは人間だけだって ありがとう」

ポケモンと人間の友情を描く世界観には似つかない種族間を断絶するような
爆裂な台詞が最序盤から登場する。

この映画は作品自体が悪者のような構造になっており
作品のテーマ性自体をサトシの勇気と愛が救っていく少々変わった作りなのだと思う。
そのため上記のような一件生き物(ポケモン)差別のような台詞が開幕から出ててくる

(この時の会話は長期の眠りによってミュウツーの記憶からなくなってしまうが、アイツーとの会話を覚えてさえいれば
ミュウツーがこの後悩むことも騒動を起こすこともなかったかもと考えると如何にも皮肉な話である)

(さらに皮肉なことにアイツーのオリジナルのアイは英語の「I」から命名されているプロット段階では「ミー」だったとか。
「アイ」を忘れてしまうミュウツー、長い長い自己証明の物語はここから始まるのである)。

では、この悪者の作品に囚われた愛おしくて哀れなミュウツーと救われていく「作品」を順を追って見ていこう。

Ⅱ.人間か、作品か

Ⅱ-i.生まれてすらいない

成体となって培養槽の中で目覚めるミュウツー
有名な(私は誰だ?私はなぜここに居る?)から始まり
(私はまだ世界に生まれてすらいない)と続く

「まだ世界に生まれてすらいない」、身体があって意識もある
なのに生まれてないというミュウツー
自己の存在意義、アイデンティティを強く意識する演出
ここから何度も私は誰だを繰り返すことになる。

既にあまりにも重いテーマ、そして悲しい因果に突入していくミュウツー

博士からコピー元のミュウを紹介されると
ミュウツーは「父なのか、母なのか」と親にこだわりその後も母で父でもなく
誰が私を作ったと出生を気にする。

ミュウツーは父母じゃないなら神か?と尋ねるも
ここでミュウツーを破滅の道へと追い込んでしまう一言
「この世で別の命を作れるのは神と人間だけだ」が博士から飛び出す。

既にオリジナルのミュウとは別の生き物になったミュウツー

生物の目的が種を残すこと、子孫を繁栄させていくことだとしたら
おそらくミュウツーからミュウは生まれないだろうし、
合成生物のようなミュウツーに通常の繁殖で子ミュウツーを産めることがどうしても想像しづらい。
構造上出来たとしても有性生殖では単体しかいないミュウツーには叶わない。

この時点で「生き物」として定義から外れてしまったミュウツー
しかし「人間」であれば別の命を作り出せるという。 
だが当然ミュウツーは人間ではない。
あまりにも悲しい現実。

Ⅱ-ii.逆襲

サカキと出会い一時は人間(ロケット団の悪事)に手を貸すが
色々と活動してミュウツーが出した結論が
「私は人間に作られた だが人間でもない」
「作られたポケモンの私はポケモンですらない!」

この作品内では人間もミュウツーも
ミュウツー自身のことを「ポケモン」と表現している
そんな中でミュウツーのモノローグで唯一自分がポケモンですらないと言い切ってしまうシーン。

思い返されるのは『もののけ姫』でのモロの台詞
「間にもなれず、山犬にもなりきれぬ、哀れで醜い、かわいい我が娘だ」
であろうか。

しかしながら圧倒的に異なるのはこちらはミュウツー本人の台詞であること。

どれだけ画面の前で
そんなことないよ!あなたにはあなたの良いところや意味があるよ!
と叫んでみてもミュウツー自身の葛藤は突き進んでいく
もちろん客観視出来るモロも共に生きると言ってくれるアシタカも居ないのだ。

現代の価値観でも禁忌とされている人間のクローン
フィクションではたびたび登場し、クローンに人権があるのかがよくテーマになっている
今から25年も前の作品で(といっても有名なクローン羊のドリーの発表が1997年のためその翌年公開の映画といえば
非常に時事的でタイムリーなのだが)
アイデンティティを失ったクローンとしての業を生まれながらに背負わされてしまったミュウツー
もちろんミュウツーの生に詰みはない、けれどその高すぎる知能が故の葛藤
実に人間臭いところがまた皮肉としか言いようのない哀しさを産んでしまう。

結果としてすべてを破壊し「私は私を産んだすべてを恨む」
"逆襲"が始まってしまうのだ。
通常逆襲といえば続編もののタイトルに付けられることが多い。
所謂、悪役の逆襲だ。
しかしシリーズ第一作目、それもポケモンという国民的アニメの最初映画が逆襲を冠する。
あまりの異質さと圧力に対面しているだけでプレッシャーで立てなくなるのは私だけだろうか。

生み出したことに対する逆襲、この台詞からのタイトルシークエンスは
子供向けアニメの始まりとしては常軌を逸したものと言えよう。
そしてここまでがアバンタイトルだったことにも驚愕させられる。

だが、ここまでで私の拙い文章にミスリードされてほしくないのは
あくまで悪役は作品そのものなのだ。ミュウツーではない。
そのことを強く胸に抱いて次の章へ進んで行くことにしよう。

Ⅲ.私のルールは私が決める

さて、シーンをググっと飛ばして
「最強のポケモントレーナー」に招待されたサトシ他がミュウツーと対面するところまで進む。
高木渉さん演じる水ポケモン使いに「ポケモンがポケモントレーナー!?バカな!」
と煽られるもまさかのトレーナーへ直接攻撃。真剣な顔でメモを取りながら見ていた私も思わず笑わざるを得ない無法っぷり。
しかしこの無法っぷりこそが「私のルールは私が決める」であり、本作に2度も登場する
ミュウツーを象徴する重要な台詞なのだ。

一通りの文明批判、人類批判を終えた所で
「いかなるポケモンよりも強く生まれてきた」と豪語するミュウツー
返す刀で「やってみなくちゃわかんないだろ」とサトシ。

この台詞から想像されるのはサトシ他のポケモンたちとミュウツーの地球の存亡をかけた熾烈な戦闘シーンかと思いきや
お馴染みのモンスターボールが描かれたポケモンのバトルフィールドへ移動、
御三家ポケモンを携えて仁王立ちする姿は正しくポケモントレーナー、
あくまでトレーナーとしての力量を見せつけることで挑戦してくるポケモンたちもそのトレーナーも各個撃破していく。

ポケモンをすべて取り上げた上で
嵐の中、海を渡って帰れと人間たちに言い放つ、
人間との直接対決にも勝ち、ポケモンを一蹴し、ポケモントレーナーとしても無敗。
人間の心を乗っ取って思うがままに操る、自家製のモンスターボールは他人のポケモンでもゲットできる。
もちろん、人間には到底不可能な嵐の中海を超えることもミュウツーなら容易いことだろう。

わざわざ各地からトレーナーを招待してやったことは何かと振り返ると
徹底的な力の誇示。

最強だから自分がルールを決める。
単なる傲慢なラスボスなのだろうか、決してそんなことはない。
それはミュウの乱入によって内心を吐露せざるを得なくなる次章で明らかになっていく…


Ⅳ.本物

煮詰まった局面の中で満を持してミュウが登場する。
可愛いフォルムと無邪気に宙を移動する一見して厳ついミュウツーとは対局の存在と思わせるが
その実力はミュウツーと拮抗しており、初めてミュウツーの思い通りにいかない展開となる。
ここで、この映画の白眉とも言える台詞が飛び出す。
「確かに私はお前から作られた しかし強いのはこの私だ!本物はこの私だ!」
文字に起こすだけでも(いやー……)と呟きながら俯いてしまうような哀愁がある。

もちろん強いほうが本物なんて理屈は無い事はミュウツーも視聴者も分かっている。
分かっているからこそ、そこにすがるしかない事実に涙が止まらない。
自身を"人間でもポケモンでもない"と言い切った上で、強い人間が支配してるこの地球。
だからルールは自分が決める、自分が本物だと言い張る。強いから本物だと言い張るしかない。

思い返してみると我々も
間違っている、良くないと思いながら何かにすがるしかない依存するしかない
そういった現状と日々戦っている。

幼少期のアイとの会話を覚えていれば、最初に出会った人間がサカキでなければ、
人間でもポケモンでも寄り添ってくれる存在があれば……
そういったタラレバとはまさしく我々の人生そのもので
あの時こうだったら、こういう家や容姿で生まれてきたら、周りの友達はこうなのに……
言い出したらキリがないくらい思い浮かんでくる。

そんな現代社会を代弁するような孤独で孤高なミュウツーが振り絞った一言がこの台詞なのである。
しかしながら唯一の拠り所である"強さ"を持ってしてもミュウに勝ち切ることは出来ず
あまつさえミュウは真面目に取り合おうとしない、ミュウツーの攻撃を躱すだけで決着をつけようとしない。

こうなってくるともはやミュウツーには何も残らない。
見てるこちらもただひたすらに嗚咽を漏らすことしか出来ない。
出来ることなら画面の中に入ってミュウツーを今すぐ抱きしめたい衝動に駆られるが
それも叶わず次の台詞が
「生き残るのは私だけだ!」

"私だけ"

"私"ではなくて、"私だけ"
ミュウとミュウツーの戦いで勝つのは という意味だけだろうか?
人間とポケモンの中で生き残るのは?それとも種の存続という意味で残るのは?
良くない思考が邪推を押し上げる。

ミュウの登場によって進んだようにみえた物語は結局煮詰まってしまい泥沼の様相だ。

Ⅴ.ニャース!ニャース!!ニャース!!!

Ⅴ-i.ジンテーゼ

本物とコピーの戦いも終盤になると
「本物だってコピーだって今は生きている」
「みんな生きている」
「作られたと言ってもこの世に生きている生き物」
といった台詞が人間たちから発せられる。

この作品のテーゼが本物が尊い
だとしたら
アンチテーゼがコピーのほうが強くて本物
であって、ジンテーゼが本物もコピーも生きている
なのであろうが、この段階まで見進めた視聴者とミュウツーにとっては綺麗事でしかない。

そうはいっても今この瞬間も辛いし、誰も私のこと認めてはくれないのだ。
生きているから尊いと言われて"はいそうですか"と言えるほど純朴ならここまで悩んではいないのだ。

Ⅴ-ii.やっぱりロケット団しか勝たん!

もはや絶望感しかない展開の中でゲームチェンジャーとなるのが我らがロケット団だ。

そもそも今回の騒動においてロケット団は正規に招待されたトレーナーではなく
所謂「招かねざる客」なのだ。

本来存在しないはずの人物によってホストの予定が狂いだし
思惑が崩壊する展開はフィクションでは往々にして使われているが、
通常であれば招かねざる客とは主人公、つまり探偵であったり旅人であったりするもので
それによって翻弄されるホスト側というのも黒幕やラスボスと呼ばれる存在のはずだ。

しかしながらロケット団は当然主人公ではないし
ホストというのもこの場合ミュウツーではなく作品そのものだ。

この極めて異色な構造の中で観客も作品もロケット団の3人に救われていくことになる。

さて、本編に話を戻すと
本物とコピーのポケモン達が殴り合う中、ムサシとコジロウ
「自分で自分をいじめてる」
「昔の自分を見るようで、今の自分を見るようで」
続けてニャース、自分の爪を見て「これ痛いだろうニャ~」
コピーニャースも同じことを言うが
「おミャーの爪のほうがもっと痛いだろう」と返すニャース

これから相手にすることを"自分がされたら"で考えて実行しないニャース
相手の爪のほうが鋭いと立てることが出来るニャース

つまり相手を思いやり慈しむことは自分を思いやること
この言わばこの作品の結論とも言える台詞を
サトシでもミュウツーでもなく
ポケモンであるニャースに喋らせる妙といったら!

自分を愛するように相手を愛すれば良い

相手を好くように自分を好きになれば良い
これは生きているから尊い、という理屈より遥かに腑に落ちるものだし
私はこのシーンを見て考え方を改めるほどに影響を受けた。

人間だのポケモンだので揉めている中
人語を解すある意味でもっともポケモンらしくないニャースは
普段から人げとポケモンの架け橋になっているし
この問題の答えも知っていた。

この結論で少なくとも私は救われた、けれども作中のポケモンたちはまだ戦い続けている。
そしてこの作品の罪もまだ祓われてはいない。

Ⅵ.人間一人も泣いてないじゃん

ジョーイさんの無慈悲な解説
「生き物は同じ種類の生き物に縄張りを渡そうとしない」
「相手を追い出すまで戦います それが生き物です」
という台詞が入る。
やはり"生き物"と"人間"は違うのか、それがこの映画のテーマなのか……

その後
ご存知通りサトシが攻撃に巻き込まれて石化してしまう、
ピカチュウが駆け寄り電気ショックで助けようとするも目覚めない。
ポケモンたちの涙でサトシの石化が解けるという流れだが

重要なのはピカチュウの涙ではなく
ピカチュウ含む本物コピーポケモンたち全員の涙であるということ。

ここにきて冒頭の
生き物は体が痛い時以外は涙を流さない、悲しみで涙を流すのは人間だけ
という台詞が痛いほどに活きてくる。

この悲しみとも慈愛とも感動とも言えるポケモンたちの涙が人間を救ったのだ。
これでやっとこの作品が積み重ねてきた人間とポケモン、人間と生き物の断絶が終わる
人間もポケモンも生きていて存在していて尊いということが綺麗事ではなくなり
実際にサトシ復活という奇跡に繋がっていくことで我々も救われていく。

作品を見る前に感じていた日常への鬱憤もこの作品中でのもやもやも全部晴れていくのがこのシーンだろう。
答えの出ない難しいテーマにポケモンという題材を混ぜ込みつつ
原作ゲームのミュウツーの設定も壊さずに作り上げた手腕はまさに見事と言うこと他ならない
この一連の流れこそ私がミュウツーの逆襲がポケモン映画の中でも特別だと感じている理由である。

Ⅶ.fin

そして締めくくり、記憶を消されたサトシが
「なんで俺たちこんなところに居るんだ?」というが
カスミの回答は「居るんだから居るんでしょーね」である。
1時間半の冒険を描ききった後だからこそ言える存在することへの肯定。
こんなに気持ちよく映画館を後に出来ることもそうはない。

私はこれから先も人生に迷う度にこの映画に相談し、答えをもらうことだろう。

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