手術痕アリ

手術痕アリ

 自分、けっこう身体のあちこちを手術してます。

 最初は生後半年ぐらいのとき左膝の手術。膝の内側を半月形に切ったようです。
 これは生まれて三ヶ月後ぐらいに左膝に血管腫が出来て、切る切らない、放射線の適応になるならないの擦った揉んだの末、一度は放射線治療にすると親も同意して決定したそうです。
 診断は地元の病院でやってもらったそうですが、放射線治療そのものは九州大学の病院でやってもらうことになり、姉を田舎に預け、両親が福岡に連れて行ったそうで。
 そこで治療前に前泊入院したらしいんですが、そのときに別な若い医師と親が話しをしていて「放射線では確かに腫瘍も消失するが、膝そのものの発育が阻害されるので、将来びっこを引くことになるのでは」と疑問を呈されたそう。
 その話しは地元の病院では一切出ていなかったようで、驚いた親がとにかく待ってくれと病院側に頼み込み、最終的には外科手術で切除という方針になったそうです。

 乳児の手術ということでお医者さんもかなり集まり、物々しかったとのこと。輸血も父親の血を使い、ほとんど全血入れ替えぐらいだったと言われたとかなんとか。
 結果は乳児の小さな膝部分でなんと37針縫ってのとても細かいもので、医師の話を聞いた親によると大成功だったようです。
 話に聞くとびっくりするんですが、九大病院では手術だけで入院は地元でとのことで、手術したその日に熊本まで当時の国鉄で連れ帰ったとの母親の話は、ホントかいな?とも思っておりました。

 当たり前と言えば当たり前ですが、その後のハイハイや立ち上がりは周りの子どもからは明らかに遅れていて、ハラハラしていたそうです。
 また、白衣の人が周りを取り囲むことが多かったせいか、いわゆる白シャツの人が近寄ると大泣きしてたそうで、そのあたりの話はさもありなんと聞いていました。

 物心ついてくると、手術痕がケロイド状になっていたのでなんでかなあとは思っていましたが、そこまでコンプレックスにはなってなかったように思います。
 四十過ぎてから天気が下り坂のときや急な冷え込みのときに、膝から太ももにかけての皮膚表面にそれまではなんともなかった痛痒さを感じるようになりました。
 ひどいときは太ももをバンバン叩きたくなるぐらい。これが時代劇で見ていた「古傷が痛む」ってことかと一人納得したものです。


 次は右手首。内側の真ん中を3針縫ってます。保育園の年長さんのときです。
 これは怪我した瞬間の記憶はあるんですが、治療や縫ってもらった記憶は全然残ってないんですね。
 場所は毎週土曜日には家族で泊まりに行っていた父の実家。当時は週末には親戚集まってよく宴会してて泊まるとこも多く、一泊した日曜日の昼間だったと思います。
 毎週行ってましたし、近所の子どもも遊びに来てたんですが、確か一つ下の友達と座敷で遊んでいたときです。
 昔の家の上半分が紙格子で下半分が曇りガラスになっている障子のガラス部分、そこにプロレスごっこかなにかしている途中で勢い余って右手が強くぶつかった感じでした。
 割れたガラスが刺さって、しかも場所が場所だけに血が噴き上がったそうです。
 親や親戚の話だと、その瞬間は私は何が起こったか分かってない風できょとんとしてたとのこと。
 このあたりから自分の記憶は無く、とにかく両親含め伯父叔母たくさんいたので急いで病院に運んで縫ってもらったようです。
 ただ、一番近くて大きい病院が精神科だったので、後から考えると運び込まれた病院でも慌てただろうなあと思ったものでした。
 このときの記憶、ホントに怪我したときのことだけで、後のこととか保育園休んだりしたこととかは全く記憶に残ってないのが自分でも不思議です。


 三番目は左手首。親指の下側あたりでこちらは4針。
 小学三年生の夏休み、両親共働きでしたので姉と2人で留守番していたときでした。
 中学一年の姉が座敷の畳の上に新聞紙を広げて、夏休みの工作課題で彫刻刀を使って木工加工をしていて、自分がその前で両手を着いて覗き込んでいたんです。
 まあ、当時は鉛筆削りのためにわざわざ「肥後守」って小型のナイフを子ども皆が持ってるような時代なので、彫刻刀での工作とか普通に子どもだけでやっていたんですね。
 で、姉がまんま手をすべらせてしまい、彫刻刀が私の左手首にヒット。
 タオルでとにかく傷口を押さえ、2人して泣きながらすぐ近くの病院に行って縫ってもらいました。お医者さんも看護婦さんも顔見知りでしたが、内科でしたしやっぱりびっくりされたかと思います。
 母親が迎えに来てからの話しでは親指にマヒが残るかも、とか言われたらしいですが、その点の予後は何もなくきちんと治り、幸いでした。


 最後は28のとき、最初に勤めた障害者関連の施設を辞めてすぐのときでした。右下腹部、盲腸、5針。
 これは前日からとにかく腹が痛くなって、なんかもうダメだ、多分盲腸かなとなって翌日の午後4時頃に自分でタクシー呼びました。脂汗流しながら障害者運動関連でも世話になっていた病院に駆け込むことに。
 あまり大きくない総合病院でしたが、外科には名医と呼ばれる先生おられたので、ちょっとは当てにしてたところがあります。
 職員さんのほとんども顔見知りでしたので、着くなり「盲腸かも・・・」っていうと、診察室入る前に「三太さん、今日、○○先生、学会行ってるわよ!」って聞きたく無い情報が。
 誰がいるのーっ?って、必死に聞くと「・・・△△先生・・・」。ああ、研修医の先生でしたよ。

 顔見知りすぎて「なんで準夜勤帯に来るのよ! 人少ないんだから!」とか看護師さんに怒られながら診察受けて、もちろん色々検査も。
 白血球数やその他の数値からも炎症明らかで反跳痛もあり、さあ切ってもらえると思いきや、一晩様子見ましょうとのこと。
 カーテンの奥から聞こえるオーベンの先生の「痛がってるし、開いてあげたら?」の問いに、担当医師の「憩室炎との弁別がつかない」との絶望的なやり取りを、ボルタレン座薬でも一向におさまらない痛みの中で聞いておりました。

 夜中、もう腹の中が何台もの大太鼓がハードロック演奏してるかのような痛みに。どうしようもなくなって相談したところ、あまり使いたく無いんだけど、と言いながらモルヒネ使用決定。
 もうこれは入れてもらってる最中に腹周りのヘビメタ調の痛みドラムがスーッと治まってきて、どこか芯は残ってるけどほぼバロック音楽の調べほどに落ち着いてしまいました。
 中枢神経系の痛み止め効果は偉大だと体感した初めての出来事でした。

 結局、翌日の午後にやっと手術台へ。
 術前準備のときに「下の毛、剃らないの?」って聞くと、「今は消毒薬良くなってるのでうちでは剃らないよ」との答え。色々進歩してるんだなと感心。
「何か好きな音楽あったらかけますよ」にすごいなとは思ったものの、「なんでもいいです」って返すと「先生の好みになること多いので変なのがかかるかもですよ」とか言われてしまいました。実際にはクラシックのありきたりのものだったので一安心。

 部分麻酔で意識はちゃんとあるので、手術室内の会話は聞こえまくり。
 看護師さんの「先生、○番の糸、切らしてるんですけど」に「じゃあ、△番で行こうか」には、「おいおい、ちゃんと用意しとけよ」と心の中で突っ込み。
 無事に?手術も終わり、部屋に帰って落ち着いて見てみると、ん、なんかドレーンぶらさがってるんですけど??
 もう二十年以上前になりますが、当時でも盲腸だとせいぜい1、2針止めるぐらいのイメージ。
 術後の説明で、5針縫って、3センチほど下にドレーンも通してるとのこと。
 ニコニコしながら「いやあ、もう少しで破れて大変なことになるとこでしたよ」っていう先生の話し聞きながら、「いや、君が一晩放っておいたせいだろう」とは言えない小心者でした。

 外科手術後の二十代なんてのはもう新人看護師さんの静脈血関係の練習台にされるのは必須という感じで、毎回のようにベテランさんに連れられた研修中看護師さんから血を抜かれたり、点滴指し直しされたりしながらやっと退院。

 数年前、久しぶりにその病院に顔出したら当時の担当医師が副院長になられてて、時が経つのは早いものだとしみじみしたおじさんでありました。


 最終的にか、今のところか、合計49針の縫い痕がある自分の身体。
 さすがにこれ以上はメス入れたく無いんですが、両親どちらもがん家系なのでどうなることやらです。

 昔見たサザエさんの4コマで、身体のアチコチに傷のある強面暴れん坊風のおっちゃんが、実は刀傷とかではなくただ転んだりとかしただけの傷で、「俺って蒲柳の質なんだ」って言うところに二重の笑いがあったなと、思い出しつつ書いてみました。

#手術 #思い出 #縫い目