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1人の中年ゲイと社会運動?との関わりについて その1 高校時代

私には若いときからなんとなくですが、「自分のことだけでなく自分の周囲の少し広いことにも関わりたい」という欲求(欲望?)があったのだと思います。
ここ数日、幾人かの方と個別のメッセージをやり取りをすることが増えてきていて、はて、己の今にいたるモノゴトの捉え方、考え方ってどんなふうに自分の中で折り合いつけてきたんだろうと考え始めました。
そのあたりのことを自分が関わってきたあれこれと自分史と重ねながら、少しずつまとめてみようかと。

おそらく青春時代からこれまでの具体的な関わりを何編かに分けて記載→その後に考察というか、理由付けなどを、という形になっていくと思います。
まずは具体的にどんな人生を、特に「個と集団」でどういう風に生き、過ごし来たのか、自分なりの振り返りで書いてみます。

まだまだ断片の寄せ集めではありますが、今回は主に高校時代の話なんぞを。
今(2021年8月)から見ると30年近く前、ある地方都市住まいの1人のゲイが、自らと周囲と、どんな関係を築いてきたのか築けなかったのか、そんなお話し。

多感な時期でしたので思い出そのものは書ききれないほど色々ありはするんですが、基本は「他者や集団との関わり」が軸となっていたことを中心に書いてみます。
ちなみに1966年(S41年)生まれですので、高校時代は80年代初頭あたりになります。

例によっておっさんの「昔はちょい悪(方向性違う奴で)だった俺」「年寄りの自慢話」の再生産でありますし、記憶の美化、肯定的記憶違い、思い出バイアスも多々あるかと思いますが、その辺は薄目で見てください。

私は高校時代、周りからの囃し立てもあって生徒会の役員に立候補しました。背は小さかったですが、なんか、目立ってはいたんでしょうね。
任期は半年で前期後期、といっても学期制のそれではなく、確か1月か2月から6月か7月までを前期、後半を後期とした生徒会独自の半年だったのかと。
記憶が曖昧なところがあるんですが、色々な時間的な準備など考えると、そういうパターンで無いと整合性取れないなと思った次第で。

地元では進学校と言われる高校で、生徒会活動は比較的活発だったのだと思います。
半年単位という短い活動期間でしたが、その分、年間で関わる人数もわちゃわちゃしてて、前後の役員間の繋がりは比較的大きかった印象。
役員としては、会長、副会長、書記、会計、文化委員長、体育委員長の6人だったと思います。女子2人、男子4人だったかな。もしかして書記会計が1人でもう1人仲いい女子が出入りしてたのかも、ちと曖昧です。
自分は年度後期、秋の文化祭がメイン行事となる期でその担当でもある文化委員長という役員をやりました。
この文化祭の思い出は自分の中でけっこう大きく、色んなことがあったなあと思ってます。
バス通学でしたが、準備煮詰まってくるとなかなか終バスの時間までに帰れず(帰らず、かも)、当日含め数日は着替えもって来て生徒会長と一緒にこっそり(というか、先生も見て見ぬ振りで)生徒会室に泊まり込んだりもしてました。

この文化祭のことで強く記憶に残っているのは、毎年何かテーマを一つ決めるんですが、そこで「革命」っていう言葉をタームとして上げ、先生方からなぜかすごい反対意見が出たこと。
最初は全校に希望するテーマあればと投げかけて、出てきたものを生徒会でいくつかに絞り、その後にアンケート取ったんじゃ無かったかなという、うっすらとした記憶。
今でこそ先生方が反対していた理由(笑)も分かる気もしますが、当時は「何か新しいことに取り組む」ぐらいにしか思っておらず、前政権を倒す、的な概念は生徒側には(少なくとも自分には)無かったと思います。
そうはあっても反対されるならばとより意固地になって、生徒側の意見として最終的には押し通しました。
生徒会役員としては自分達で創り上げる文化祭を、自分たちなりの「革命」という言葉に相応しいものにしようと、色々と画策していきます。

その文言上の「革命」を実現させるものとして打ち出したのが、文化祭を文字通りの意味での「生徒の全員参加」するものにしたくて取り組んだことです。
たぶんここらへんは当時騒がれていた国際障害者年の「完全参加と平等」あたりの影響が(特に自分に)あったんだと思います。

これは自分の高校の特殊な事情があったことが前提となるのですが、時期的に秋口に行われていた文化祭が、進学校であるということもあり「三年生は無理に参加しなくてもいい」という風潮になっていたことがまずあります。
そのため、文化祭期間中の「出席確認」が三年生だけ行われていなかったのです。
一、二年生についてはホームルームの時間があってましたので、やはり大学受験を控えていた三年生には暗に「来なくてもいいぞー」というメッセージになってしまっているのでは、と思っていました。
同時に文化祭への生徒の関わりが、演し物や教室展示、企画などがすべて一、二年生を中心とした「希望者のグループや文化系、体育系のサークルや部活としての団体」を参加の基本集団としていたことです。
いわゆる「クラス」としての参加は前年の資料を見ていてもほとんど無かったように覚えてます。
これは一見「参加したい人が自由に参加出来る」保障としても機能していたのですが、逆に「興味無い人は見学以外ではまったく取り組みへの参加をしないで済む」という状況も作り出してしまっており、その部分への介入をしていこうと役員で意思統一をしていきました。
そのことで正式に文章として職員会議へと以下の3点を要望する形になっていきます。実際にはその他の色んな項目がたくさんありましたが、メインとしての3点でしたね。
なんというかこの文化祭に限らず、スポーツのクラスマッチとか体育祭も含め、形としては「生徒会行事として○月○日にかかる企画をやりたいので学校側の協力をお願いしたい」という生徒会発の文書を出して、職員会議でOKを出してもらうことで準備スタートする、という不思議なシステムではありました。

1.三年生の出欠確認をやってほしい(せめて朝だけでも)
2.一、二年生については芸術選択(書道、美術、音楽の3つでした)の授業中の課題で、なにかテーマを決めて展示するモノや発表を考えてほしい
3.強制では無いがクラス単位の演し物や発表に先生方も協力してほしい(教室の利用や企画への協力等、依頼があったら便宜を図ってほしい等)

そして生徒側にも上記3点に協力してほしいとの依頼。
その中で、2.についてはなるべく「宿題」や「課題」にしないことを先生方にはかって、生徒側の拒否反応をなるべく引き出さないようにしたと思います。

要望としての、1.と2.が自分に取ってはなんとしてもの獲得目標。
3.についてはかなりゆるやかなどうとでも取れる形としての提案でした。

まあその間、生徒会担当の先生方からも色々と言われたりもしたんですが、結果として3点ともすべてに賛同していただくことが出来ました。
ちなみにこの先生には深夜にラーメン出前をみんなでおごってもらったりで、迷惑(笑)かけてばっかりでした。

1.については「せめて朝だけ」、2.については「別課題でなく、授業内の時間取り組みとして」の部分がキモになるだろうと役員の間でも予測していて、その点で先生方の中での一致点を作りやすかった、と後に担当の先生から聞いて、内心ガッツポーズをしてました。
このときの経験から「これまでに無かった取り組みをするときには、一致点としての落としどころをある程度想定しての提案をしていく」というズルい?やり方を学ばせてもらったなと思ってます。

結果、1.は三年生のクラスで文字通り朝のショートホームルームをやってもらう、2.については書道と美術ではそれぞれ展示用の作品を授業内作品として作成し、その全作品(無審査無賞)を校内に展示する(量的にけっこう大変、でも圧巻でした)。音楽選択のクラスについてはクラス単位での合唱コンクールを文化祭当日に行う、そのための基本的な練習は音楽授業時間中に確保する、ということとなりました。
3.については反対することも無かろうとすんなり行ったように記憶してます。

自分は合唱部に入っていたこともあり音楽選択、そのせいもありクラス合唱の指揮をしたんですが、課題曲(音楽の先生が古典から現代、技法も色々なものの中から選んだ4曲の中から選択)で選んだポリフォニーがえらく難しく、みんなして苦労しまくった記憶です。
当初は「えー?」みたいな声もありましたが、少なくとも音楽クラスの合唱コンクールについては、最後はけっこうどのクラスも頑張って歌ったよなあと思えました。
確か校長先生と音楽の先生+保健の先生?(記憶曖昧)に審査してもらい、結果発表ではかなり盛り上がった記憶が。
何人からか「やって良かった」と言ってもらえたのが単純に嬉しかったですね。

これらの生徒会役員として取り組んだのとは別に、自分のクラスでは、当時テレビでやってたフィーリングカップルって番組を真似した企画をやって、豆電球使って特徴的な機械と言うか大道具的なものを作ってました。
前日のテストのときに電気使いすぎて一瞬にして校舎のブレーカー落とすという、なかなかなことをしでかしたりしましたが。すぐに復旧は出来たんですが、工作班の連中は翌日までほぼ徹夜で直してたんじゃなかったのかなあと。

この文化祭についてはけっこう「やりきった感」があって、半年の任期終わるときにはなんだか感傷的になっていたように思います。

高校時代の思い出としてはもう幾つかあって、その一つはやはり生徒会に絡んでのものです。

当時、最初の方で書いたように80年代初頭になりますが、おそらくは学生運動の余波が高校まで及んでいたとき(60年代後半~70年代?でも)の名残もあったのか、私がいた時代では、授業よりも生徒議会の方が尊重されるという、今から思うと不思議な状態になっていました。

生徒議会そのものは代議員(いわゆる学級委員が兼務してるクラスも多かったですが、意識的に学級委員=先生との交渉役、代議員=生徒議会での間接民主主義としての代表と切り分け、別に選出してるクラスもありました)と生徒会役員とが集まり昼休みに開催されていました。
もしその論議が昼休み中に終わらず午後の授業時間に食い込んだとしても、授業が「公休」として処理され、単位や出欠日数、時間に響かないようになっていたんです。
ちなみにこの学級委員も独自の言い方があり、各クラスを「室(しつ)」と読んでいて、その長を「室長」って言ってました。

そんな中、自分の印象でしか無いレッテル張りではありますが、代議員は文字通り「頭のいい人」が多く、生徒会役員の方は「目立つタイプ」の人が多かったように思います。
代議員をもし国会議員に例えたとしたら、生徒会役員は議院内閣制での内閣ではなく、どっちかと言うと議会事務局の職員、みたいな感じでした。
で、代議員は一年次よりやり続けている人(選ばれ続けている人)が多く、ポッと出の生徒会役員には太刀打ち出来ないほどの猛者揃い。
生徒会役員も一年生の後期(文化祭を含む期間)、もしくは二年生の前期(体育祭を含む期間)のものがやっており、三年生の代議員とか、もはや「部活の怖い先輩」のレベルでして。
それらの三年生の代議員を中心に(たぶん)フォックスの「会議の知識」とかの勉強会が行われていて(記憶では「エマの議事法」ってなってたんですが、今回この文章を書くのに少し調べてみたらどうやらエマ・A・フォックスの「会議の知識」というものみたいでした)提案議題の優先事項などについて、こちらの知識の無さなど怒られてばかりだったことを思い出します。
その提案議題の中で「休憩動議」っていうのがあり、これが提議されたら他の動議は置いておいて最優先で討議されなければならず、可決されたら無条件に会議そのものが「休憩」に入るというのがありました。
他の生徒が授業受けてる中で、それこそ売店の利用などを含め議会参加者が休憩というか、学内をうろうろしてるというのはすごく不思議な眺めだなと思ったことを覚えてます。

この生徒議会では翌年度の各部活(体育系も文化系も含め)の予算ぶんどり合戦が年末から翌年にかけてものすごい熱気で行われて、午後の授業時間すべて潰れる程だったこともあったように記憶しています。
これもまた予算枠を提起する役員側としては各部代表との交渉や代議員との質問やり取りが凄まじいものだったなあと。

生徒会としては、市の各校の役員が集まった生徒会連盟みたいなもので、足長おじさん募金に継続して取り組んでいたことも覚えてます。
交通遺児で奨学金受けながら大学や専門学校に行かれてる少し年上の方たちとの活動が新鮮で、他の高校の役員も含め、月に一度ぐらいの街頭宣伝&募金活動に市内の繁華街に出てました。
これはたぶん、役員任期終わってもしばらくは顔出していたように記憶してます。
募金のとき、たいていは奨学生の方がマイク握って話されてましたが、たまに回ってくることもあり、街頭宣伝でのハンドマイクに抵抗無くなったことはあったかなと。
あ、あと週末の取り組みだったので保育園児とかが集まった他の募金とかもあってて、「子どもの声には勝てん」と皆で笑ってたのはいい思い出でした。

この高校時代、興味深い記憶として残っているのが、「生理や自慰とか、性的と思えることとかも男女関係なく会話できちゃう自分達って、ちょっと大人じゃない?」って雰囲気があって、(一部ではありますが)男女間でその手の話題を取り上げて話していたように思えます。
ただこの部分については当時すでに自分が性的には男性に惹かれるとの自覚もあり(といっても、女子とワイワイしてるのは楽しくて、かえってそれを「モテてる」と錯覚される面もあったろうかと)、どこかその「女子に性的欲望を抱いてなかろうオーラ」みたいなのが出ていて、女子生徒からも話しやすいとか思われていたのかもとは思ってます。

もちろん自慰行為についても男性のものとしてのみの取り上げだったりとか、当時の自分達の知識の限界や片よりなどは多々あっていたと思いますが、何人かで集まって保健の先生に話を聞いたりしていたのはいい思い出です。
その中で話を聞いた先生から「生理痛を抑える体操」とか習って、知り合いの女子生徒とかと話してたのが今にして思うとすごかったかなと。
教わった生徒含め、「生理来てないときも毎日やり続ける」というハードルの高さに挫折したーという人ばかりで、みなの笑い話になったのが面白かったです。

後は、生徒会役員の期間中だったかはもう思い出せないんですが、在校生の家が火事となり全校生に募金を呼びかけたことがありました。
進学校と言うこともあり、おそらくは各々の家庭がそれなりに年収高いところも多かったのかと思います。金額は覚えていませんが、思いもかけぬほどの額が集まってびっくりした記憶が残ってます。
おそらく生徒会室で集まったお金を集計していったんですが、その中で関わっていた連中の共通認識となったのが、「集団の金が絡むことは必ず複数でオープンに」「(物理的な意味で)金(特に硬貨)は汚い」ということでした。
みんなして手を真っ黒にしながらワイワイやってて(おもしろがる状況では無いはずでしたが)、高校生にして「宝くじのグループ買いするなら買った時点で番号から何から全員にオープンにしとかないとヤバイよね」などという会話をする変な環境だったと思います。

私の行っていたその高校、おそらく今ではまったく変わってしまっているとは思いますが、自分が在学していた時代には、進学校なのにいわゆる「課外授業」というものがほとんどありませんでした。
朝も放課後も何もなく、三年生も含め、確か午後3時半には部活やらなにやら無い生徒は帰宅出来ていたかと思います。
しかも授業の単位が65分授業で午前に3コマ、午後に2コマでした。
当然カリキュラムの組み方(授業実数の調整)が難しくなり、2週をひとまとまりとして、A週B週で科目が違うという、かなりややこしい時間割になっていました。
その状態でシステムとして「放課」という奴があり、これがなかなかに面白いものでして。
これは先に書いた「室長」の力量が問われるものであったんですが、例えば、ある日の午前中の2コマ目が教科の先生の都合などで自習になった場合、その日の5コマ目、つまり最後のコマの先生との交渉で折り合いがつけば、その授業を午前中の2コマ目に持ってきて、1日の最後の授業コマを自習時間と振り替えることが出来ました。
しかもその5コマ目は、おそらく進学校ゆえのものからだったとは思うんですが、もう生徒の側は帰宅しちゃっていいよ、というシステム。
建前としては「家で勉強するのと自習とはいえ変わらない」というものがあったのかもですが、後から考えてもよくまあ公立高校でそんなことがやれていたなあと。
このとき2コマの間での調整がつかないとき、室長があれやこれやと先生方の間を走り回って玉突きみたいな入れ替えしながら、最終的に早く帰れるように出来たときは拍手喝采といった具合でした。
今よりはるかに大らかな時代ではあったんでしょうが、ホントに不思議なものでしたね。

もう一つ、思い出した不思議なことがあって、先ほど「課外授業は無かった」という話を書きましたが、それに代わるものかなんなのか、なんと放課後(3時半以降)に、「三年生の生徒同士による自主的な学習会」なるものをやってました。
これはクラス(正確には「室」)単位ではなく、進学校ゆえのもう別格にその教科出来る奴(主に数学だったとは思います)が「今日、○室で行列やるってよ」みたいな情報流れてきて、興味ある連中が集まって授業?受けたり質問したりという、教え合いみたいなものでした。
東大に現役から何人かは通る地盤や、当時のマークシート型のテストで満点取る奴も何人かいる、みたいなこともあって、人気のある生徒講師(笑)もいたりして。
自分も囃されて国語では何回かやったんですが、文系科目に人がそうそう集まるわけでもなく、自然消滅。
それでもあのときの経験は、後に塾講師のバイトしたときにすごく役に立ったなと思ってます。


長くなりました。
次は大学生時代のことでも書こうかとは思ってますが、これはこれでもっと長くなりそうで。
も少しnoteでの書き方覚えて、見出しみたいなの付けなきゃな、とも思いつつ。

それではまた、次回に。

2021年8月15日 終戦の日に